たりたの日記
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2005年06月12日(日) |
明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む |
マタイによる福音書の5章から7章は「山上の説教」と言われる箇所だ。 今日の主日の説教で、説教者は、イエスの語る「山上の説教」は言ってみれば、羅針盤のようなもので、このイエスの説教を聞くことで、自分の生きるべき生き方を定めることができると語った。 「山上の説教」はこれまで幾度となく読んできたが、読む度にはっとするものがある。その時時にそれまでとは違ったところに光りが当たり、その部分と新しく出会う。
マタイによる福音書5章はこう始る。 「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。」
山へ行くようになって、この山上の説教の冒頭の部分を読むと、弟子達に大切な話をするに当たってなぜ山へ登ったのか、そこのところに興味を覚える。いったいどのくらいの高さの山だったのだろうか、どのくらいの時間歩いたのだろうか、イエスの山をよじ登る姿や、イエスの後に続いて、黙々と山をよじ登る弟子達の姿が浮かんでくる。
山はこの世でありながら、少しばかり世俗とはかけ離れている場所だ。地上よりいくらか天に近いというだけではない。そこには木々が、野の花が、また鳥がいて、人間の煩いの多い生活とはまるで違った命の営みがある。
イエスは空の鳥、野の花を見よとわたし達に促す。わたしたち人間がこの世を生きるうえでのさまざまな悩みに対して、イエスは繰り返し、「思い悩むな」と言うのである。 そして「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」 と。
ではなぜ人間は思い悩むのか。説教者はこう語った 「神と富とは相反する主人であって、人はその両方に仕えることはできない。両方に仕えようとするのは無駄なことで、そのような無駄なことをするから思い悩む。濁った目で世界を見るから思い悩みが生じる。澄んだ目で世界を見ていく時、神の養いが絶対に確かなものであり、神が我々を支えてくださり、神の恵みが溢れるほどだというところに立つ。神から受け入れられているということに喜びを見出していくなら、思い悩むことはなくなる」と。
わたし達、被造物は、空の鳥や野の花と同じように、神から命をいただき養われているということを知るべきだ。そしてその造り主から受け入れられて入るのだということを知ること、そいうすれば、静かな喜びが内に起こってくる。
さて、今日が感謝のうちに終わる。明日のことを思い悩むことなく、眠るとしよう。
(6月13日深夜に記す)
<マタイによる福音書> 6:24−34
24 「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
25 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。
26 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
27 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。
28 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。
29 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
30 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。
31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。
32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。
33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
34 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
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