たりたの日記
DiaryINDEX|past|will
2005年06月09日(木) |
黄金色の死―地球交響曲第三番「魂の旅」を読みながら |
今日の読書は龍村仁著、地球交響曲第三番「魂の旅」。 ラテンと次のエアロの間にも読みましたが、夕方ジムから戻ってきて、庭のテーブルで葉を茂らせたハナミズキの木の下で、少し陰になっている場所にすっくりと白い花をつけているストックや、たくさん花を付けたアンネのバラを眺めながら読んだのです。暗くなって文字が読めなくなるまで外で読んでいたいと思いました。植物の息づかいが感じられる場所で読みたい、そんな本です。
ずいぶん前にこの本を友人のYさんから借りていたというのに、次次に押し寄せてくる本のために、この本を開くきっかけがないままになっていました。というより、きっとこの本を読む心の状態ではなかったからなのですね。というのはこの本を読みながら、自分の中心が戻ってくるような、旅から自分の家に戻ってきたような、そんな気持ちになったからです。
自分にとって未知な世界、初めて出会う人に心が開かれますが、自分のものではないエネルギーに影響され、わたしは右に左に振幅します。それはとても大切なことだと、わたしはその揺れに身を任せます。ところがその状態がしばらく続くと、心は自然にわたし本来のポジションに立ち返ろうとします。心は旅し、また戻ってくる、そんな感じですね。
でもどうでしょう。その旅は振り返ってみれば、戻ってきた場所と決して無関係ではないのです。例えば坂口安吾の「私は海をだきしめていたい」の中で感じ取ったのは、自らの魂を見つめる作家の眼、自分をはるかに超える大いなるものの懐の中に抱かれていたいという、この世的なものから突き抜けようとする強い憧れでした。ゼミの中では安吾のシャーマニズムへの傾倒が上げられていましたが、そのことも今読んでいる本の世界と無関係ではありません。また、山行きにも夢中になっていますが、それはそこで地球の命そのものを浴びるような気持ちになるからです。人間がどんなに小さく弱い存在であるか、そのことを知らされることが慰めになるのです。
地球交響曲第三番「魂の旅」には1996年にカムチャッカで熊に襲われて亡くなった写真家星野道夫さんのことから始っています。星野さんが亡くなる半年前にインタビューで語っている言葉に胸を突かれました。
「アラスカに熊っていますよね、あの熊が一番すごいのは一撃で人間を倒せるからなんです。こんな言い方をすると誤解されるかも知れないけれど、時に新聞で人が熊に殺られた、という記事をみたりすると、ボクはある意味でホッとするんです。ああ、まだ人と熊との間にそんな関係が成立する場所が残っているんだ、と思って……」 「どこか近くに熊がいて、いつか自分が殺られるかも知れない、と感じながら行動している時の、あの、全身の神経が張りつめ、敏感になり切っている感覚がボクは好きです。あるインディアンの友人が言っていたんだけれど、人類が生き延びてゆくために最も大切なのは、“畏れ(フイアー)”だって。ボクもそう思います。我々人類が自然の営みに対する“畏れ”を失った時滅びてゆくんだと思うんです。今ボクたちは、その最後の期末試験を受けているような気がするんです」
星野さんは、熊に襲われる可能性は熟知しておりながら、緊張しつつも、あえて銃を持たず、避難小屋へは泊まらず、テント泊を貫いていたということでした。星野さんの死はあまりに早く、その存在が失われてしまった事は残念ですが、ある意味で、彼らしい死を死んだのだと改めて思いました。
龍村氏が星野さんのお宅へ弔問へ行き、十字架を冠した骨壷を見て、星野さんが洗礼を受けていたことをその時初めて知ったと記述していますが、星野さんがイエスと出会っていることを思い胸を押し上げてくるものがありました。愛する熊に命を捧げた星野さんもまたイエスの使徒としての歩みを貫いたことを思います。
龍村氏が「死は黄金色をしている」という文章の中で引用している「我々の人生に『死』があるということは、忌むべきことではなく、むしろとても健全なことなのだ」というフリーマンの言葉がストンと胸に落ちます。
星野さんの最後のエッセイ集となった「旅をする木」が出版された時、わたしはその本を義父への父の日のプレゼントに贈っているのです。義父はその本をとても喜んでくれたのですが、今となれば、その本の事を義父と話さないままだったことを少し残念に思います。
この1月義父が亡くなる数日前のことです。わたしは義父の寝室に置いてあったこのエッセイ集を病院へ持って行き、病院のベッドの側に付き添いながら、この本の冒頭の部分を読み、胸がいっぱいになっていました。彼のアラスカへの想い、自然への情熱はしかし、彼の死後も失われることなく、生き続けていることを強く感じました。 死の床にあって最後の時間を雄雄しく生きている義父を見守りながらわたしもまた「黄金色の死」を思っていたのです。
さて、まだ本は半分まで読んだところです。明日残りを読むことにしましょう。そして、地球交響曲第三番の映画を上映しているところを探してみましょう。第四番、第五番は見ているのですが、一番から三番まではまだ見ていないのです。 きっと見るのにふさわしい時が用意されていることでしょう。
|