たりたの日記
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2005年05月30日(月) |
オレンジ色のコートの中にしっぽをしまって |
あなたは変な人だ、いろいろ変な人はいるがかなり変っていると三日に一度くらいの割合で同居人から言われる。その「変さ」というのはわたしには分らない。けれど、わたしから見れば変な人で、どのカテゴリーにも当てはまらないように思える同居人がそういうのだから、わたしはどこか変なのだろう。そして周りに警戒する人がいない家などではほっかり、しっぽも出てしまうから、その事が容易に目に止まるというわけなのだろう。 今日は、家の外に居ながらしっぽが伸びていたのかもしれない。でもわたしは変な言葉を出さないように自分を見張っていたから、誰にもしっぽは見えなかったに違いない。
今日は文学ゼミで坂口安吾の「私は海を抱きしめていたい」を学ぶ日だった。 ゼミの前に、ゼミ仲間の中では主婦とかいう立場が同じであるSさんから自宅にお招きを受けていた。昼間から山ウドの天ぷらやら、こっくりした煮物やら、そこいらの居酒屋では決して食べることのできない美味しい手料理と彼女の故郷のワインや、後主人お勧めの焼酎やらを散々ごちそうになって、ほとんど夢心地。朝から降り続いている雨も少しも心を曇らせることなく、足取りも軽くSさんとゼミの会場へ。
会場へ着いて見れば、この前の山行きでお会いしたSさんがわたしに下さったという鹿児島芋焼酎「純黒」が届いていた。見るからにおいしそうな焼酎。当然の成り行きで、みなでその焼酎を飲みながらのゼミと相成った。 先生から安吾についてのレクチャーと作品の解説があり、その後、それぞれに感想を述べていく。何時もと変りないゼミの光景だ。個人がどのような感想を持っても、又批判しても良い。自分とは違う読み方、違う受け止め方はそれなりにおもしろく勉強になる。時に異なる受け止め方がぶつかり合い、白熱することもある。それがまたこの場所での学びのおもしろさだと思っている。
ところがこの日はわたしの心の中は何とも妙な具合だった。酒のせいであるのかもしれないし、そうではなくテキストが坂口安吾だったからなのかもしれない。安吾に関する客観的な批評がなぜかグサグサと心に刺さった。例えば、彼はお坊ちゃんだとか、甘えているといった辛口の言葉。それに反発しようという熱い気持ちは起こらずただ痛かった。その痛さというのは、わたし自身がまな板の上に載せられているような、あるいは夫や子どもや親の事を言われているようなやりきれなさにも似ていた。「それはその通りだろう。そのようにも受け止められるだろう。けれどもそのような自分の魂とは無関係の高みから、批評しないでくれ!」と心は叫んでいるのだ。
それはどうしてなのか。ついこの前知ったばかりだというのに、坂口安吾という作家、わたしが生まれる前に死んだ一人の作家とわたしは契りを結んでしまったらしい。男とか女とか、生きているとか死んでいるとか、そういう事とはまるで無関係に、ひとつの魂と結びついてしまうことがある。その事はわたしもほとんど無自覚のまま、わたしの内面で突如として起こる。そうなれば、もうその魂は身内のようなものなのだ。とても批判の対象には成り得ない。その魂の高さや純粋さだけでなく、そのものが持つ弱さや欠けや痛みともまるごと結びついてしまうわけだから。 そういう特別な出会いが起こってしまったことを知らされた。 わたしの傍らに安吾、その人が座しているのである。その魂の波だって伝わって来る。何も言えないではないか。
わたしは少しさびしい気持ちのまま、オレンジ色のレインコートの中にそっとしっぽをしまい込み、みんなと雨の中を歩き、それから別れて電車に乗った。安吾は電車の中でもわたしの傍らに居て、黙ったまま、雨が降りつける黒い電車の窓を見ていた。
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