たりたの日記
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2005年05月26日(木) |
今ごろ、坂口安吾を読み始めている |
昨日から読み始めた坂口安吾全集04、読んでしまった。 今日はジムの日でほぼ一日ジムで過ごしたから、クラスの合間に自転車こぎながらとか、帰りにドトールに寄り道してとか、そして夜はパソコンを開かずに本のみに没頭した。その間に焼酎のお湯割りを3杯飲んだので、途中ノビてしまったが、目が覚めてまた読んだ。 読むことを止めることができなかった。そして読むほどにこの作家が好きになる。同居人は、あきれた調子で、なんで今頃と言うけれど、わたしにとっては、若い時ではなく、今が出会う時だったのだろう。
読む前は、遠い人という先入観があったが、4巻を読んだ限りでは、これまで読んだ男性作家の中では最も近さを感じる。すぐそこで呼吸をしているその人を感じるような近さを思う。男性の詩人や作家ではどちらかと言うと女性的な中性的が好きだと思っていたが、安吾はそうではない。ある意味、男男している。苦手なタイプのはずなのに、感じてもいいはずの違和感や拒否反応がない。これはいったいどういうわけだろう。
嘘がないから、たぶん。むき出しの魂だから、おそらく。こんなにも純粋に生きた文学者がいたのだと溜息が出る。それに宗教的だ。彼は宗教家ではないし、作品に聖書や仏典を引用しているというのでもない。それでもわたしには堕落論も、女性や性への向かい方にも、なぜか宗教性を感じてしまう。それも純度の高い。わたしが塩をかけられると感じるのも、そこに寄るのだ。わたしのなまぬるさや濁りに塩が降りかかる。
全集は全部で17巻あるのだっただろうか。明日にでも次を読みたいところだけれど、もう一度4巻を読み返し、課題の「私は海をだきしめていたい」のことを考えよう。
4巻には、1945年〜1947年にかけて発表された著作44編が収録されている。この中でとりわけ印象が深かったものは、 「堕落論」、「白痴」、「女体」、「いづこへ」、「恋をしに行く」、「風と光と二十のわたしと」、「私は海をだきしめていたい」、「道鏡」、「通俗と変貌と」、「ぐうたら戦記」
―「通俗と変貌と」より―
芸術は「通俗」であってはならないが、いかほど「俗悪」であってもよい。人間自体が俗悪なものだからである。むしろ俗悪に徹することだ。素朴や静寂に徹するよりも、俗悪に徹することは、はるかに困難な大事業だ。そこには人の全心全霊のあらゆる力が掛けられることを必要とする。その道は自爆以外にないのである。
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