たりたの日記
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2005年05月24日(火) |
悲しみを慈しむということ |
いつも感想を送ってくださる日記の読者のTさんが、昨日の感想のメールで、良い言葉を教えてくださった。
<慈悲と言う言葉は、悲しみを慈しむという意味合いを持つ>
透き通った悲しみというものがある。それは、その人の感情とはかかわりなく、その人の存在に常に透けて見えている。わたしはその悲しみの冷たさに触れるのが好きだ。それはとても犯し難く、尊いものに思え、またわたしにも伝染する。
まだ尾崎翠に浸っていたい気分ではあるが、今日は次のゼミの課題の坂口安吾を読んでいた。テキストの「私は海を抱きしめていたい」は、そういう意味では、恐ろしく純度の高い悲しみが滲み出ていて、くらくらと眩暈がした。センチメンタリズムとはほど遠い、むしろ宗教的なものを含む根源的な悲しみ。
この短編の始まりの言葉はこうだ。
「私はいつも神の国へ行こうとしながら地獄の門を潜ってしまう人間だ。」
昔から坂口安吾はなにかおっかなく、塩をかけられてナメクジのようになってしまう自分を予感し、読まずに来た。その予想は当たっていたとも言える。それでも、「坂口安吾全集04」というのを読み進めている。 傷口に沁みる塩のような味わい、その痛さはむしろ心地よい。
感想はまたいずれ。
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