たりたの日記
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2005年05月23日(月) |
「絶えず死の悲しみに心をうちつけて居たい」 尾崎翠 |
夕暮れ時、しかも雨。 窓の外のトーンがわずかずつ落ちて来る。まだ見えているハナミズキの葉の上の雨の雫も闇に飲み込まれてじきに見えなくなる。木の幹と枝はもうすっかり黒いシルエットになっているのだもの。
考えてみれば、暮れなずむ時間にこうして窓の外を見ているというのは珍しい。多くの場合、この時間帯は仕事や用で外にいるか、そうでなければ忙しく夕食の支度をしているか、あるいはジムにいるかだ。 もしかすると無意識のうちに暮れていく時間に独りで窓辺に座わるという事を避けているのかもしれない。 けれども今はこの暗さとさびしさが心地よい。 このひとときの時間、ふっと死の姿が窓辺を横切る。 誰もが死んでゆくという死、累々と連なっていく命の終わりという死・・・
今日アマゾンから届いた尾崎翠集成(下)をさっきまで読んでいた。 4作目の「悲しみを求める心」はとても心に染入った。一度沁み込めばもう決して抜ける事がない染料のようにしっかりと染み付いてしまった感覚がある。 この夕暮れ時の窓辺の景色といっしょに、その気分をしまっておこう。
「絶えず死の悲しみに心をうちつけて居たい」 尾崎翠
―尾崎翠「悲しみを求める心」より抜粋―
私は死の姿を正視したい。そして真にかなしみたい。そのかなしみの中に偽りのない人生のすがたが包まれているのではあるまいか。其処にたどりついた時、もし私の前に宗教があったら私はそれに帰依しよう。又其処に美しい思想があったら私はそれに包まれよう。 私が母と話していたある時―私もこれから先十年の間だよ―と母が言ったことがあった。その瞬間に強い悲しみが私の胸を通った。十年―それは母の心やりである。母はなぜ今日、明日と言って呉れなかったであろう。私はそう言ってほしかった。私の頬には父の死にむかった時よりももっと深い悲しみの涙が伝わった。それは瞬間のものであったけれど真の涙であった。母の心と私の心とはその時真に接触していた。私の願うのはその心の永続である。絶えず死の悲しみに心をうちつけて居たいのである。それは決して無意味な悲しみではない。私の路を見つけるための悲しみである。
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