たりたの日記
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2005年05月01日(日) この水を飲む者はだれでもまた渇く

日曜ごとに礼拝に出て讃美歌を歌っていると、その時の身体や心のコンディションのようなものが妙にはっきり分かる。

今日は讃美歌を歌いたい気持ちが湧いてこずに、ただ声を出して言葉をメロディーにのせただけだった。むしろ歌うことが苦痛ですらあった。
心に喜びがないという状態をずいぶん久し振りに味わっていると思った。

悲しかったり、苦しかったりする時にも、深いところにある喜びや希望は失われないものである。3ヶ月前の義父の葬儀の時、わたしも夫も力強く讃美歌を歌った。死の闇はそこになく光りを感じていた。虚無の入り込む隙間はなかった。

JR尼崎の脱線事故で友人の連れ合いが犠牲者になったことは不意打ちだった。その事故に遭遇したのはわたしであったかもしれないし、わたしの連れ合いや子ども達であったかもしれないと思った。突然の喪失がこういう形で不意に訪れるのだ。夫を失い、父親を失った友人家族の前で、わたしは言葉を失ったが、言葉だけではなく、わたしはふっと自分の中心を見失ったらしく、その瞬間、「虚無」に足首を掴まれてしまったようだった。

友人や家族に対するへ正常な痛みや悲しみを抱くことができれば、そこへ積極的にかかわろうとする気持ちが起こるのだろうが、わたしはただ無力感を味わい為すすべもなく、虚ろの中を漂っていた。

礼拝の後は来週から始る歌のクラスのための準備をするつもりだったが、歌う気にはなれない。ジムへ行く気にもなれないので、15分くらい歩いて図書館へ行った。図書館は実に久し振りだった。

高橋たか子の著書を読みたいと思った。それも彼女が信仰者になってからのいわゆる後期の作品ではなく、初期から中期にかけての虚無の極みのような作品を読みたいと思った。
以前、「高橋たか子自選小説集」全4巻が並べられてあった書架にはその本が見当たらなかったので、本が保管されてある書庫から出してきてもらった。
数年前にこの分厚い全集は4冊とも熟読しているが、読み始めるとたちまち引き付けられ、しばらく没頭してしまった。おそらく、今のわたしの心の状況と呼応するのだろう。

高橋氏が自選小説集の第一巻の巻末に収めてあるオリジナルエッセイ「受洗の頃」の中にこのような文章があり、以前読んだ時にも増して印象深かった。



「・・・・・サマリアの女とイエスとの対話であるヨハネ福音書の有名な数行を引用することで、この巻のエッセイを書き始めたのであったが、この数行は私のすべての小説の全体にわたって鳴りひびいていると言ってもいい。「この水を飲む者はだれでもまた渇く」という「この水」を飲むことしか知らずに渇きつづけていた受洗に至るまでの私、受洗後もまだ「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」という「その水」の在り処がわからず、渇きのやまなかった私が、あれほど小説をとおして渇きを乱舞してきたというのに、今、もう渇いてはいない私がここにいる・・・・・・」

―高橋たか子自選小説<1> P525より抜粋―


きっと、わたしは「その水」の在り処を見失って、今、渇いているのだろう。けれども、水の在り処を見つけようとする前に、渇いているというこの状態をしばらく見つめてみようと思っているのだろう。しかしすでに知ってはいる。渇かない水があるということを。


たりたくみ |MAILHomePage

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