たりたの日記
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2005年05月02日(月) |
1年前の日記を開いてみると |
ふと、昨年の日記を開いてみる気になった。 昨年は5月の連休をどう過ごしたのだったろう。どこかへ出かけたという記憶がない。
日記を読んではっとする。昨年の5月2日の日記のタイトルは「死の陰の谷を行くときも 」で、こう始っている。
<昨日と今日で、世界がまるで変わってしまったということがある。
思いがけないアクシデント、 予期せぬ人の死、 死にかかわる病気の宣告、
こういったことからほど遠く、日々は平和に過ぎているが、 わたしたち、一人一人、この壊れやすい、生身の身体を持っているということが、取りも直さず、日々死と隣り合わせで過ごしているということなのだ。>
すっかり忘れていたものの、この時の気分をありありと思い出した。 この日の前日、大学の次男の肺に異物が認められ、肺癌の疑いもあるので、まず、腹部と脳に転移がないかを調べる検査をするという知らせを受けたのだった。
検査の結果、悪性の腫瘍の疑いは晴れ、肺の奇形の一つである肺分画ではないかということで、夏休みに入ってから、そのまま家には戻らず、筑波大学病院に検査入院した。ところが、肺分画を予想した肺の摘出手術の直前の検査で、肺の異物は肺分画ではなく、肺の一部が石灰化したものらしいという事になり、手術は見送り、経過観察をするということで、8月もお盆を過ぎてようやく退院したことだった。
しかし、その間に、同じ教会に通う青年に肺癌が見つかり、すぐ癌センターに入院した。次男の事を喜ぶ間なく、深刻な状況と向かい合う事になり、友人を病室に訪ねる日々が続いたが、最後に病室を訪ねてから数日で逝ってしまった。あまりにも早い死だった。
そして、年が明けると義父の危篤の知らせ。急ぎ郷里へ帰省し、看取り葬儀と続いた。義父の死後、それまでしっかりしていた義母が精神的に不安定になり、それまでできていた事が急にできなくなり、夫は様子を見に帰省しているところ。
こうして振り返ってみると、この1年はある意味、死の陰の谷を意識しながら過ごしてきたのだと思う。そうして、その時には、その歩みが支えられるように、わたしはしっかりと中心にいらっしゃる方の手を握り締めていたような気がする。悪魔のもたらす虚無が入り込む余地などなかったのはそのためだ。ほんとうに支えられていた事が今さらながら分かる。
そういう事を考えていると、今、突然の事故で連れ合いを失った友人は、痛みの中にも、深い慰めと、次へ歩み出す勇気をすでに与えられているに違いないという確信のようなものが心の内に湧き起こってきた。
そして、頭の中ではバッハの二つのバイオリンのための協奏曲の2楽章が繰り返し鳴っている。永遠へ向かって二つの旋律が絡み合いながら上昇していくような、ひたひたと静かに満ちていくようなその曲。
この曲をその友人と二人で何度か弾いている。 林の中でのコンサートで演奏するにあたって、ストリートミュージシャンよろしく、人影のまばらな公園の中で弾いたことがあった。 また彼女の提案で、末期癌を患っていたわたしの従兄の連れ合いのためにささやかなコンサートをした。そういえば、わたし達が通う教会に彼女が出向いてくれて、礼拝の中で演奏した事もあった。
彼女に慰めの言葉もかけられなかった虚ろな心の状態は変っている。心の中でわたしは彼女の弾くバイオリンの音に自分の音を合わせている。澄みきって静かな、けれども力強い音が響き、広がっている。 大丈夫、彼女は力を得ている。きっと。
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