たりたの日記
DiaryINDEX|past|will
2005年04月11日(月) |
文学ゼミで読んだ「片腕」のこと |
朝から雨。昨日満開だった桜は雨に叩かれて冷たい地面に落ちているのだろうか。 今日は夕方文学ゼミに出かける他はこれといって用はない。 火曜日から始まる英語クラスの準備をし、ゼミのテキスト、川端康成の「片腕」をまた読む。この2週間、繰り返し読んできた。おもしろい作品だった。読むほどに、その世界が少しづつ輪郭を露にしてくるのだが、先にまた新しく問いが広がる不思議な作品。
「片腕を一晩お貸ししてもいいわ。」で出しから意表を突かれる。物語のはじめから終わりまで、そこには女の片腕を抱え持つ一人の男の姿しかない。
はじめに読んだ時の印象は、グリム童話のようだという印象だった。非現実的な筋書きの中に、人間に共通する潜在的な何か、普遍的な何かが紛れ込んでいる昔話の匂いがすると。この作品を川端の別の作品「眠れる美女」同様、フェティシズムの産物だととらえるのが一般的な見方なのだろうが、わたしには、川端が女の片腕を通して、自らが訪ね求めているもの、何ものかへ向かう強い希求が描かれているように思えてならない。
正津先生から、川端康成は3歳の時に母親を失くし、15歳で天涯孤独の身の上になっている。この物語は満たされなかった母親の愛を求める「母を求めて三千里」の話だと思うと聞いた時、何かストンと胸元に落ちた。幼児の頃に受けることのかなわなかった母親からの無償の愛。彼の希求はそこなのだろう。その欠けを埋めるべく、その空洞を満たすべく旅を続けているのだろう。
たりたさんには、この作品の中の2箇所に出て来る聖書の引用について話してもらいましょうと、促された。
どちらもヨハネによる福音書からの引用で、一つはラザロの復活の場面で、ラザロが死んだことを聞いたイエスが涙を流したという箇所。 小説の中で、主人公が過去に出会った女が自分に身をまかせる時に、唐突に「(イエスは涙をお流しになりました。<ああ、なんと、彼女を愛しておいでになったことか。>とユダヤ人たちは言いました。)」と男にふるえる声で言う。 もう一箇所は男が女の片腕を自分の腕と取り替えた後、「だけど血が通ふの?」と言う男の問いに対して「(女よ、誰をさがしているのか。)といふの、ごぞんじ?」と女の片腕が問うのだ。これはマグラダのマリアがイエスの葬られた墓へ行き、空っぽの墓の前で泣いている時にイエスが「女よ、なぜ泣いているのいか。誰をさがしているのか。」と訪ねる場面だ。女の片腕はさらに続ける「あたしは夜なかに夢を見て目がさめると、この言葉をよくささやいているの。」と。
この聖書の引用は、わたしが先に書いた作者の「訪ね求めているもの」が何であるのか、それを解く鍵のように思って読んでいた。何か永遠なるもの、魂と魂の深いつながり、そういった宗教的な命題が浮かんでくるのだ。なぜなら、聖書のその箇所はともに復活の場面だから。そしてここにはイエスのラザロへの、そしてマグラダのマリアへの深い愛が描かれている。川端はそれをイエスの側からでなく、イエスから愛される人間の心情を表わすべくこの箇所を用いているのだ。小説の中の女達が感じていたこと、神なるイエスから愛されていることへの恍惚感、あるいは至福を、わたしはそこに認める。母親と赤ん坊の間に起こる一体感、母親の自己犠牲的な愛、川端の母性愛への幻想がイエスに投影されていると読むのは読み込みすぎだろうか。
ゼミの後も、その聖書の箇所のことを考えていると、いろいろな部分に光りがあたってきて言葉にならない思いが溢れてくる。
川端は自らのセクシュアリティーのありどころを深く自分の内側に降りていって探した。そうしながら、思いがけなく、永遠なるものへの憧れ、神の心との深い融合への希求に出くわしてしまったのではないか。 しかし小説の中ではその憧れも希求もそのままに取り残され、男は求めるものに出会うことのできないまま、再び孤独の闇の中に留まる。なぜ男は求めるものを手にすることができなかったのだろう。
女たちは自分に死んでいた。永遠が見えていた。自分の腕を男に与えた女も、男に身をまかせた過去の女も。しかし男は自分に死ぬことができなかった。もぎ取られた自分の片腕を目にして恐怖を覚え、発作的に、一度は自分に付けた女の腕をもぎ取り、また自分の腕を付けるのだ。自分に死ぬことなしには救いはない。
この作品についてはまだもっと読み込み、改めて書くとしよう。
*川端康成「片腕」は↓で全文が読めます。書名をクリックしてお読みください。 川端康成著「片腕」
|