たりたの日記
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2005年03月26日(土) |
芥川龍之介著「蜃気楼」を読む |
「蜃気楼」芥川龍之介の小品。初出は昭和2年2月4日とある。芥川が自死したのが昭和2年7月24日だから、この作品は死の半年ほど前の作品ということか。
印象的な作品だった。芥川その人の素顔を間近に見ているような、またその風景の中に共にいるような臨在感を覚えた。蜃気楼を求めて、友人や妻と連れ立って海岸を散歩する作者。美しい描写の中にも、陰鬱な気分が通奏低音のように響いている。そして掴みどころのない獏とした不安や無気味さはどこか死に近い。のた打ち回る苦悶や慟哭の激しい悲しみは案外、生命の力を感じさせるものだが、しかし、この作品に見える作者の命の力は希薄に感じられる。そして、そういった自身の心の状態を、作者は客観的に眺め、記録しているような印象を受ける。
作者の陰鬱な心の深部を投影するような言葉や表現が目に止まる。例えばこのような。
・蜃気楼 ・まだぼくは健全じゃないね。ああいう車の痕を見てさえ、妙に参ってしまふんだから。 ・絵の島、家々や樹木も何か陰鬱に曇っていた。 ・鴉の影、その陽炎の帯の上へちらりと逆さまに映っていた。 ・水葬した死骸の付いていたと推測する木札、何か日の光の中には感じる筈のない無気味さを感じた。 ・真白い犬が一匹、向こうからぼんやり尾を垂れて来た。 ・僕はなぜかこの匂いを鼻の外にも皮膚の上に感じた。 ・やあ、気味が悪いなあ。土左衛門の足かと思った ・鈴の音―幻聴 ・自動車の運転手と話しをしている夢―それだけに気味が悪いんだ。何だか意識の閾の他にもいろんなものがあるような気がして。 ・ つまりマッチへ火をつけて見ると、いろんなものが見えるようなものだな。 ・ 偶然僕等の顔だけははっきり見えるのを発見した。・・・・僕は又何か不気味になり、何度も空をあおいで見たりしていた。 ・松は皆いつか起こり出した風にこうこうと梢を鳴らしている。 ・ 背の低い男が一人、足早にこちらへ来るらしかった。
一方、作者の陰鬱な心情との対極にあるもの、命とか未来を感じさせる表現もまたある。それらはどれも、作者の心の向きとは違う方向にあるのだが、その命の力のようなものを作者は退けず、はっきりと認識しているのだ。そこへの憧憬にも近いものがあるというのは読み込み過ぎだろうか。例えばこのような箇所。
・轍―何か圧迫に近いものを感じた。逞しい天才の仕事の後 ・新時代、女の断髪。パラソルや踵の低い靴 ・妻―「わたしのぽっくりの鈴が鳴るでせう。」「わたしは今夜子どもになってぽっくりを履いて歩いているんです。」 ・おぢいさんの金婚式 ・ 東京からのバターとソーセージ
これらの表現を眺めてみると、芥川が精神的に病んでいる、弱っているということは明らかだ。自分でもどうすることもできない、何かわからない無気味さに支配されている事が伝わってくる。
ところで、芥川の自死の理由はどういうものなのだろう。良く言われているように、狂った母親を見てきた芥川は自分が狂いつつあることを憂えて、そうなる前に自ら死ぬ事を選んだのだろうか。自らの命を蜃気楼のように儚いものとして、虚無のうちに自らの生に決着をつけたというのだろうか。 しかし、それなら、死の2週間前に書いた「西方の人」をどう読めば良いのだろう。閉じたところで自分を持て余している文章ではない。鋭いジャーナリストの眼で、独自のキリスト観とでもいうものを記している。
聖霊を「永遠に超えんとするもの」といい、聖母マリアを「永遠に守らんとするもの」と定義する。そして「クリストは兎に角我々に現世の向うにあるものを指し示した。我々はいつもクリストの中に我々の求めてゐるものを、――我々を無限の道へ駆りやる喇叭の声を感じるであらう。同時に又いつもクリストの中に我々を虐んでやまないものを、――近代のやつと表規した世界苦を感じずにはゐられないであらう」とキリストのことを語る。ここには自死を匂わせる表現や、神経を病んでいるような印象は見当たらない。むしろ、現世の向こうにあるものへの憧憬やキリストへの愛が表現されている。
病む者の症状として、時折、激しい死への渇望が発作のように襲ってきていたのだろうか。当然、死へ流れ込もうとする自分を 生へ繋ぎとめる努力もしたことだろう。この作品「蜃気楼」の中に見え隠れする、生と死、陰と陽のコントラストも、作者の内なる闘いを垣間見させてくれるような気がする。
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