たりたの日記
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2005年02月01日(火) 看取りの時 ♯1

1月31日

 義父の容態がずいぶん良くなり、このまま小康状態に入るかもしれないという期待が持てたので、夫と次男は午後の便で自宅と寮に戻る。父は義母と義姉とわたしにしきりに家で過ごせと合図する。母が夜10時くらいまで病室にいて、その後わたし達が交代して夜の付き添いをしようと病室に行くと、強い調子で帰れという動作をする。5日ぶりに初めて父だけ病室に残して、わたし達は家で寝る。
その後はしばらく眠れない夜が続いたのだから、後で思えば、この時、義父がわたし達を帰してくれたことは有り難いことだった。


2月1日 

朝早く父のところへ。元気がない。酸素の量も70台になる。また点滴を入れるための血管がだめになり、もう静脈からは点滴を入れられない。しかしこのまま点滴が入れられなければ、口からは全く水分を補給できない状態なので、体に水を補給できず危険な状態になる。無理かもしれないが、足の付け根の動脈から点滴を入れられるようやってみるということになり、医師は奮闘し、およそ一時間ほどかかって点滴を入れることができるようになった。
父の衰弱は更に進んでいるので、夜もわたし達は3人で交代に病室に残ることにする。

夜中の12時半、急に酸素の数値が40に落ち、夜勤の看護婦さんが達があわてて病室に駆けつけ、肺に空気を送り込んだりという緊急の時の処置をする。
3時間あまり、義母と義姉と共に義父の手を握り息を詰める。
義姉は父親を失うことが耐え難いのだろう、必死で義父をこちらへ引き止めようとしているのが分かる。義母は放心していたのかもしれない。
わたしは大地からのエネルギーを自分の身体を通して義父へ送るヒーリングをする。義父はじっと手を取らせてくれる。心は静かだが、後から後から涙が流れ続ける。血縁と別離する引き裂かれるような痛みはなく、ひとりの人の終末の前に感動にも近いものを感じていたような気がする。

明け方3時過ぎ、酸素の数値が40台から70台、さらに80台にまで落ち着いたので、わたし達は交代で仮眠を取る。


たりたくみ |MAILHomePage

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