たりたの日記
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2005年01月09日(日) 洗礼ということ

いつだったか、昔からの友人が、わたしの日記はめまぐるしくモードが変わり、その変化についていくのが疲れるから毎日読むことは止めて、気が向いた時にまとめて読むことにしたと言っていた。

そうだろうなと思う。焼酎の話をしていると思えば、冨岡多恵子の描く「性」の話、そして今日はこれから聖書の話を書こうとしているのいだから。
わたしにとっては何の矛盾もないのだが、そうして一日のうちには食べ物や飲み物のことも考えれば、本に没頭もするし、聖書の言葉や神さまのことも考える。歌も歌えば踊りも踊る。サウナや風呂でゴクラク気分に浸るのだから、モードは目まぐるしく移行する。

これは小説でもなければ、一つのテーマで書いている連載エッセイというわけではないから、書こうとする時間の気分に応じて、フレイミングはいくらでも変化する。とはいっても、どれもこれも、わたしの中心を通って出てきた言葉であることには間違いがない。
その場しのぎの繕いや、心にもない言葉を並べてしまうという事を日常では余儀なくされるけれど、そしてそのことにいつも疲れているのだけれど、ここで発する言葉はどれもわたしのホントウ。わたしはホントウを書き連ねることで、きっと自分を解きほぐしている。

いやに長い前置きだ。さて、自分のホントウの在り処に焦点を置いて書こう。
この日の福音書のテキストはマタイによる福音書 3:13−17。イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けるという場面だ。

「洗礼を受けているのですか」という質問をよく受ける。わたしは21歳の時にキリスト教の洗礼(プロテスタント教会)を受けている。その引き金の一つになったのは、大学の聖書研究会に入った時、わたしは洗礼を受けていなかったから、「ノンクリスチャン」とされたことだった。
洗礼を受けた者は「救われた」者でクリスチャンと呼ばれ、洗礼を受けていない者は「救われていない」者でノンクリスチャンだと呼ばれ、そこにはっきりと線が引かれたのだ。

そんなばかなはずはない!とわたしは心の中でフンガイしていた。(今でもそんな分け方にはフンガイする)
子どもの頃からイエスはわたしのすぐそばにあった。神が照らしてくれる道を歩いてきたと自覚していた。それなのに、高々大学に入ってキリスト教に出会い洗礼を受けたクリスチャンから、ノンクリスチャン呼ばわりされる筋合いはない!と思った。そんなことなら、洗礼だって何だって受けてやろうじゃないの、と、まあ、このことは洗礼を決意する充分な引き金にはなったのだ。

ところが洗礼を受けるその時には頭に登った血もすっかり冷めていて、わたしはえらく神妙な心持だった。どのように神妙かと言えば、ちょうど初めて走るマラソンのスタートラインに立って、ともかくも走りださなければならないという神妙さだった。
自信などまるでない。自分に走り通せる体力があるかどうか甚だ疑わしい。いくじなく途中で脱落して笑い者になるかもしれない。その前に呼吸困難でダウンするかもしれない。しかし、走ることを決めた。とにかく走り出すのだと、しごく神妙だったのだ。


この日の説教の中で、「人間は誰でもごく自然に神から生かされている、その神と共に生きているという気持ちを持っている。それを極めるのは人間の自然なあり方だ」と語られた。

そうだ、神を信じて生きるという事はむしろ自然のことなのだ、決して特別な生き方じゃない!とわたしは相槌を打つ。

説教者はこう続ける。「すべての人が神の恵みの下で、いちばんいい生き方をすることを神は望んでおられる。ところは人間は神抜きで生きたいという本性を持っている。これこそが古い人、肉の人で、これに死ぬこと、神の霊によって生きる、自分を捨てて、神の想いの中に生きようと新しい歩み出しをすること、これが洗礼です」

自分にとことんこだわって生きているわたしは「自分を捨てて」というフレーズの前に思わず身を固くする。捨てていないものが山ほどもあるからだ。捨てて身軽にならなければ走れない。捨てていないことに居直ってはいけないのだと、それに対しては頭をうなだれていなくてはならないのだと、また思う。

説教の最後の部分の言葉を手帳に書き留める。
「神の御心を受け止めて生きること、そのことを受け入れて生きること。わたしたちは新しい生まれ変わりをしよう。いつも新しいところへ帰っていく。洗礼を通して神の霊が注がれているそのところへ」

21歳のあの時、見えないスタートラインに立った時、わたしは果てしなく弱かった、けれど、その弱さの故に、また強いことも知っていた。そこにあるのはわたしの力ではなく、わたしを歩ませようとする神の力であることを感じていたからだ。
その地点へ、繰り返し立ち戻っていくのでなければと思う。



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マタイによる福音書 3:13−17

13 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。

14 ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」

15 しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。

16 イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。

17 そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。


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