たりたの日記
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| 2004年12月27日(月) |
詩における<聖なるもの> |
今日は、詩人、角田清文の命日だ。この詩人は去年の12年27日に他界している。わたしはこの詩人を彼が死んで後に知った。残念に思う
今日は実家の外回りの掃除、窓拭き、シンク磨きの合間に清田氏の評論集『相対死の詩法』を読んでいた。
氏のイエスへの詩への、そして詩人達へのパッションがわたしを嫉妬に駆り立てる。何故の嫉妬か。その熱さに、愛のカタチに、また氏の心を掴んだ詩、及びその詩を書いた詩人にも。 わたしこそが相対死(あいたいじに)したかったなどと過激な事を思っている。詩人でもないのに。
同じようにナザレのイエスを愛する者として。詩を歩いている者として。 (わたしは詩書きではなくとも詩を歩いているという自覚がある)
どのページからもインスパイアされるが、詩の聖性という記述は深く心に留めた。
その一部をここに抜き出させていただこう。
「ひとつの作品が詩として存立するためには、その基層に聖性−サクレなる感じがなければならないのです。」
「詩人の使命とは何だろう。(中略) 罪悪生死の場所である穢土の一切の有情無情を眼ざしや信仰によって聖なるものへ関連させてやることが詩人の使命というものだろう。もし連関しえないとすれば、それは詩人の眼ざしの曇りであり、信仰の欠如であろう。」
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