たりたの日記
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「なつかしい」という感情を表す言葉が英語にはないと言って、アメリカ人の友人は「なつかしい」という日本語を得たことを有難がっていた。言葉にない事はその感情さえ取り出すことは難しい。
わたしはといえば故郷の変わらない山の姿や町並みを目にし、幼い頃に過ごした場所やよく知っている人達に再会しながら、そこに起こる感情がとても「なつかしい」という言葉では包み込めないと、この気分を表す言葉をいつものように、また探している。
夢の中で繰り返し戻っていた場所に現実に足を踏み入れているのに、まだ夢の中にいるような現実味を欠いた感情とでも言うのだろうか。
別の見方をすれば、「なつかしい」場所は少しも意識から離れる事なく、例えば夜に見る夢の中で背景として常設されているのだ。そんなことも故郷に戻っていて改めて知る。
今日は24日のキャルドルサービスにも参加した母教会の礼拝に出た。会堂は建て変えてあるものの、この教会の元々の形を再現しているので、「なつかしさ」を喪失しないで済む。
またそこにはわたしが保育園の園児だった頃の先生方が二人おられ、また小さい頃いっしょにままごとをした幼馴染みもいて、昔のようにいっしょに礼拝を守る事ができた。
目まぐるしく変化して行った日々の中で変わらないものがそこにある。そしてその事に慰められる。
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