たりたの日記
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| 2004年06月05日(土) |
高橋たか子著「この晩年という時」 を読む |
こういうタイトルで、日記を始めたが、わたしはこの書評や読書感想文を書くつもりは毛頭ない。 もう半年以上もこの本を抱えていて、行きつ戻りつしながら、今日ようやく最後のページを繰り終えたが、読み終えたのではなく、ようやくこれから読み始めるのだという気がしているからだ。
彼女の本にしては小説もエッセイも読み終わったところから、かかわりが始まるような不思議をいつも味わう。 そう、ページを最後までめくり終えたところで、わたしに向けられた課題のようなものがいくつも浮かび上がっているような気がするのである。しかし、その課題も漠然としているから、もう一度、今度は課題を探すために最初から読むのでなければと思う。 そして、一人の作家の書くものに、このように向かえることを幸せに思っている。
70歳になろうとしている高橋氏が、「これまで決して言語化してこなかった自伝的事実をきちんと書いておこうという気になった」という。 そしてまた、「私は誰か、私自身でさえ答えられぬというのに、他人たちが私の死後に勝手な思いこみで私という者を書かぬように」と願っている。
「いったいわたしは誰なのか? これほど自分をよく知っている私が、そう言い、そう思うのだ。 なぜなら、私の中に私を越えるものがあり、そこからの波動が絶えまなく私の一瞬一瞬をあらしめているのだから。この、越えるものとは、茫漠とした人類の中味だ。そうしたものが、神の強大なエネルギーに乗って来る。」 (「この晩年という時」あとがきより抜粋)
常に自分のいちばん深いところ(存在の深み)へ降りていって、綴られた言葉は、そこで完結せずに、そこから広がっていく。 ではどこへ向かって広がっていくのかといえば、わたし自身の存在の深みへ。 わたしもまだ知らない自分自身のどこかの場所へ、その場所の方々へ広がっていく感覚がある。
そういうわけで、この本を、また始めから読むことになるのだろう。 書いてあることを理解するために読むのではなく、知識を得るために読むのでもなく、読むことでわたし自身の内的旅をするために。 こういう本があることはうれしい。
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