たりたの日記
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初校が終わり、原稿を送ってほっとしているところです。 で、今日は午後から久し振りにジムへ行き、エアロビクスとボディーパンプ(音楽に乗ってやる筋トレ)をやり、晴れ晴れとしています。
だいたい、わたしは本というものがどういうプロセスで出来上がるのか、さっぱり分かっていないので、いったい幾つの山があり、どの山が険しく、またどの山にどういう注意が必要なのか、見当が付いていなかったのですね。結局、今度の山が結構険しく、いろいろと見えてきました。後、最後の(おそらく)校正という小山が残っています。
書くということは、きりきりと自分を見つめていくことなんだなあと思いました。もともと出発が、気分転換とか、リフレッシュする目的で書いた日記だったので、校正する度に甘さとか欠けとかが見えてくるんです。それを書いた時と今の自分が違うというのも、なかなか苦しいものがありました。前にも書きましたが、人間て日々違うし、体のリズムや、その日のお天気で、気分も言葉も変化します。それを本という形に固定しようとするのですから、ジレンマが起こるのです。 ネットで書くということと、本を書くということの間にはわたしが想像していたより遥かに大きい違いがあることが分かりました。
ネットの言葉も確かに文字として残ります。けれども、これを書き終えて、それをクリックしてしまえば、それはその時の言葉ですむわけです。この文章は明日のものでも、1年後のものでもない、今だけの文章。少なくともわたしはそういうつもりで書いています。 いわばライブ録音のようなものですね。その時に録音されたというのが意味を持つ。たとえそこに雑音が入ろうとも、間違った音が入っていようともそれがライブなのですから。 ところがスタジオ録音ともなれば、何度も何度も録音をし直して完璧なものができるまで粘るわけでしょう。本っていうのはスタジオ録音だったのですね。(何ていって、わたしはそういう録音の経験はないのですが…)
それで今度本を書くとしたら、始めから本として読まれるものを想定して、一つの流れの中で、同じトーンで始めから終わりまで通して書いていきたいと思ったのです。それはそれで大変なのでしょうが… ちょうどそんな事を思っていた時、タイムリーに書く仕事のお話があり、ああ、今度はこれだなと、思いました。また産みの苦しみが始ることでしょう。同じ産みの苦しみでも、出産同様、プロセスが分かっているというのは心強いものです。
ところで今日は心太日記の担当日です。一昨日の金曜日、春の庭で書いたものです。「4月の庭で思ったこと」、心太(ところてん)日記でお読みください。
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