たりたの日記
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ジョルジュ・ルオー、わたしの、おそらくは一番好きな画家。 複製だけれど、ルオーのキリストのフレームを壁に掛けている。窓辺には大きなルオーの画集。これもキリストの顔が表紙になっていて、この絵の辺りにはしんとした空気が漂っている。
昨日はバッハのパッションを聴いていたけれど、今日は校正の作業の合間に、画集を開き、ルオーのパッションを見た。 これはアンドレ・シュアレスの宗教詩集「受難」(原題は”PASSION”)にルオーが銅版画の挿画を載せているが、それを油絵に写したものだ。この54点の「受難」は日本にあるらしい。画集にはこのうち12点が載っているが、どれも「東京、個人蔵」と記されている。
ルオーは19世紀後半のフランスの画家だったが、どの流派にも属さず、また他の画家とも無縁な、孤独な画家だった。 彼は宗教画家と言われるが、多くの絵の中にキリストを描いている。彼が好んで描いた娼婦や道化師も宗教的なトーンを持っているのだ。ルオーの絵を見ていると、宗教的というものがどういうものなのかとてもよく分かる気がする。 日本語の、現代の日常の中で変質してしまったシュウキョウという、うすっぺらな語感の、それは対極にあると感じる。
黒の太い線と、独特なブルー、黒の中に光のようにちりばめられた色の美しさ。ステンドグラスのような印象があるのは、ルオーが十代の頃、絵ガラス師の徒弟奉公をしたことに関係しているのだろう。どれもずっしりと重く、画面は暗く静かだ。 絵がそのまま、ルオーの思想や信仰であるように、描かれている対象は違っていても、どの絵もただ一つのことを語っているような動かし難さがある。
わたしは写実的な宗教画よりも、ルオーやシャガールが描く、宗教的な内面を表わした絵が好きだ。そこには言葉では置き換えることのできない神との関係のようなものが見える。画家の魂がくっきりと見える。
画集の中に、ルオーの言葉がいくつもあり、興味深かった。画家との交流はなかったが、哲学者や作家にルオーの良き理解者がいたということもうなずける。
<ルオーの言葉より>
私を傲慢の塊のように思い込んでいる連中は、決して―決してとわたしは断言しますが―世界からは孤立している人間が物を産み出す時の不安な気持ちを理解することはできないでしょう。産み出しうる、そして産み出すべきす べてのものを産み出すに到った時、彼は何よりもまず自分自身が見えなくなり、おそらく到達することも覚束ないよりよきものを目指しながら自らを責めさいなむのです・・・・・
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