たりたの日記
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心太日記への投稿 その2 「夢と現」
「あんたはいつまでたっても夢みたいなことばかり言っている」
久し振りに会う古くからの友人は決まってわたしにこう言う。
いったいわたしは夢みたいなことばかり言ってきただろうか、夢ばかり追いかけてきただろうか、大いに疑問がある。 わたしはこの世で一番現実的な母親というものをそれは地道にやってきた。 そりゃあ、小さい頃には歌手になりたかったり、漫画家になりたかったり、作家になりたかったりと他の子どもと同じように分不相応な「夢」を目の前にぶら下げては、一目散に、そこへと向かって駆けた。 しかしそれは所詮、目の前にぶらさがった人参。走っても走っても距離は縮まるはずはない。そのことに気が付いたわたしは野心というようなものはさっぱりと捨てた。
にもかかわらず、人から「夢のようなことばかり追っかけている」と言われれば、どこかで否定できない気はする。 なぜなら、わたしは確かに現(うつつ)の向こうにあるものに目を注いでいるから。今ここに展開している日常とは異なる場所にひょいと入り込んではその場所で呼吸をする。 いえ、ほんとうのことをいうならば、わたしの日常はむしろ現(うつつ)ではないところにある。現を生きているように精一杯カモフラージュすることは忘れてはいないにしても。
しかしそれを「現」の反意語として「夢」と言ってよいものかどうかわたしには分からない。わたしにとって、内的にはよほど現実的でクリアな場所をわたしは「夢」と呼ぶことはできないから。
そこにはわたしという存在を創り司る神が在る。人と人とを結びつける天使が在る。わたしがその日出会うすべてのことがそういった必然の秩序の中に存在する。わたしは現実の人間と対話するよりはよほど、そういう見えない存在と対話し、そこから何かを聞き出し、そこから来るインスピレーションによって歩みを定めている。人はこういう生き方を「夢のような」とディスクライブするのかもしれない。
そうだ、夢というならば、わたしにだって夢はある。 それは、現の向こうにあることがらを現のツールを用いて表現すること。誰もが共有して持つ言葉を使って、現の向こうにあるものを目に見えるかたちにするということ。わたしは日常にころがっている言葉を、誰の目にも見える風景を、ただ綴る。しかし綴るわたしの目は神を見ている。そうとすれば、わたしが綴るものの中に、神の眼差しが映し出されているのではないかと尊大にも考えている。 そういった意味での表現者として、証人として生きていたい。
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