たりたの日記
DiaryINDEX|past|will
2004年01月25日(日) |
日ごとの決意と、日ごとの発見 |
今日は午前中、教会の礼拝に出て、夕方からmGとダンスのステージを見にいった。どちらも、この1週間を始めるにあたって、充分な滋養とエネルギーをもたらしてくれた。ダンスのことは明日の日記に書くことにし、今日は主日なので、礼拝のことを書いておこう。
今日の礼拝の説教の冒頭で、牧師がひとつの願いを語られた。 牧師は、日曜日の説教が、たとえ一言でも聞く人の心に残り、その人がその言葉を持って、1週間を過ごしてくれたとしたら、踊り出したいくらいにうれしいことだと言われた。
さて、わたしは日曜ごとに説教をいったいどのように聞き、また聖書をどのように読んでいるだろうか。その聖書の言葉なり、説教の言葉をそのまま、繰り返し思い出したり、反芻したりすることもあるが、わたしにとっては礼拝そのものが、ひとつの体験として、その時間を生きるというようなものだと感じている。讃美歌を歌う、祈る、聖書を読む、説教を聞く、そのひとつひとつは体験となってわたしに浸透するような気がする。食物が身体を維持するエネルギーとして体に浸透するように、礼拝は、魂の必要を満たすものとして、浸透する。だから、その日食べたもののことをその後思い出すこともないように、礼拝を終えて魂の糧をいただいた後は、すっかりとまた日常に戻って行くという具合だった。
しかし、今日は、その日いただいた言葉を1週間の間、反芻することの大切さにはっと気がつく。言葉を心に止め、その言葉の内にすっと立つということはきっと必要なのだ。そうでなければ、日常の出来事は様々で、そのひとつひとつには必ずしも関係がない。ちょうど、その時の気分のまま徒然と記されるこの日記のようだ。それらを統べる軸はない。
しかし、どうだろう。日曜日の聖書の言葉を、語られた説教を、そこから始まる1週間のテーマとしてそれを軸にするのは。決してそのことをテーマに書いていくというのではない。一つの言葉をあくまでも携えて生きてみるということ。
今日の聖書の箇所は、イエスがシモン・ペテロに、今から後あなたは人間をとる漁師になる といい、彼らがすべてを捨ててイエスに従ったというところだ。
説教の中で心に残ったところは、「イエスに従っていくということは、何も特別なことをするというのではない。神の前に生きる者として、昨日やったことを、今日もまたやるといこと。しかし真実に生きるということ、イエスと共に生きるということは、同じことを繰り返しやっているようで実はそうではない。いつも新しい決意がそこにあり、いつも新しい発見がある。自分は神の前で何と小さいものかということを知るのだが、その小ささと共に、恵みもまた知る。」というところだった。
この1週間、日ごとに新しく決意し、日ごとに新しい発見をしていきたいと思う。 実際、このようにして書く時、決意は新しく生まれ。また発見も起こるのである。わたしにとっては書くということが、イエスと共に歩むということであるかもしれないと思った。
|