たりたの日記
DiaryINDEXpastwill


2003年11月09日(日) ミュージカル「リバーダンス」ー音楽とダンスは限りなく近かった

夕方から連れ合いと東京フォーラムに「リバーダンス」を見に行く。ずいぶん久し振りのミュージカルだった。
ニュージャージーに住んでいた頃は車で30分ほど走ればブロードウエイに行けたし、もともとチケットが安い上に、マチネの半額のチケットを手に入れることもできたから、ミュージカルといっても映画に行くくらいの気軽さで楽しむことができた。が、しかし、日本で見ようとすると、とにかく高い。しかも何ヶ月も前に予約しなければ、チケットそのものが手に入らない。そこまでして見たいという気もも起こらなかったから、ここ10年、本格的なミュージカルの公演からはすっかり遠ざかっていた。

今回このミュージカルに行こうと思ったのは、夏に美容院に行った時、そこの店長が3年前のこの「リバーダンス」のステージのことをそれは熱っぽく語ってくれ、その時かけてくれたケルティックなリバーダンスの音楽にそそられてのことだった。そしてネットで調べて珍しく4ヶ月も前にチケットを手に入れた。しかもS席。11500円。大学生2人にローンを抱える我々にとってはかなりの贅沢。めったに行かないのだからどうせだったらステージの人達の表情もばっちり見えるところでと奮発したつもりだったが甘かった。会場はあまりに広い。確かに全体からすれば、一階の真ん中あたりの席だが、とてもステージの人の表情までは見えるものではない。ブロードウェイの客とステージが一体となるようなミュージカル小屋のイメージがあったのだが、ここにそれを期待してはいけない。

ケルトの音楽というのは何か辺境の地の音楽という感覚があって、厳しい労働の中で「かくれダンス」としてアイルランド人が生み出した力強いタップダンスというところにも惹かれていた。しかし、リバーダンスの世界はそこを起源としているものの、そのダンスや音楽を伝統を意識しながらも、より多くの人を魅了する大掛かりなエンターテイメントとして構成されていた。そこはもう辺境はない。誰もが楽しめ、誰もが圧倒される大掛かりなショー。実際、その大きな会場は多くの人で埋め尽くされ、会場の入り口にはパンフレットやビデオなどの他に人形やシャツなどのキャラクターグッツが並べられ、その周りも黒山の人だかりだった。けっして一部のマニアに愛好される音楽や踊りではなく、多くの人がそこに群がるショービジネスとして成功したものであることが分かる。それが好きか嫌いかは別にして。


アイリッシュダンスは確かにすごい迫力だった。ダンスというよりはドラム。つまり2本の足をリズム楽器にして大勢の人間が一瞬の乱れもなくとてつもなく早いリズムを刻む。足が打楽器になるというこれは新しい発見だった。私の知るタップダンスは身体全体を動かすし、ダンスの要素の方がむしろ強いが、アイリッシュダンスは上半身は全く動かさない。動きとしては足だけの動きだ。もちろん足の動きそのものも美しいし、洗練されているのでリズムを耳と目の両方で楽しむことができる。また音楽と踊りとの距離がとても近いところにある。中でもモーリン・ファヒのフィドルは圧巻だった。彼女自身がダンサーでもありボーカリストでもあるから彼女のフィドルを弾く姿や動きがそのままダンスで、しかもフィドルは彼女自身の身体から出てきた声であるようにまさに歌っていた。

このリバーダンスのステージを見て一番に感じたことは音楽とダンスが別々のものではないということだった。音楽は音でダンスを踊るのだし、ダンスは身体を楽器にして音楽することなのだと。そして音楽もダンスも人間の日々の暮らしの中から感情の中から生まれてくる。そのことを意識する時、音楽もダンスももっとわたしたちの日常の中に溶け込んでくるんじゃないかとそんなことを思った。


たりたくみ |MAILHomePage

My追加