たりたの日記
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2003年11月08日(土) 保坂和志著「書きあぐねている人のための小説入門」を読む

ここのところ保坂和志さんの小説やエッセイをアマゾンで一気買いした。それで翌日ふらりと本屋に入ると一番先に目に止まったのが「書きあぐねている人のための小説入門」。タイトルに惹かれて、初めのページを読んで買ってしまった。著者が保坂さんだと気がついたのは家に帰ってからだったからあきれてしまう。それにしても「縁」がある。ここはどうでも彼に学ばなければならない何かがあるということなのだろう。

昨日の午後、この本を一息に読んでしまった。うん、うん、と頷きながら読んだ。こんなことを書くとすっごく傲慢のようだが、ここに書かれてあることをどこかで感じてきたと思ったのだ。共感するとか、分かるということはそもそもそういうことなのだろう。そのことが自分の中にあるからこそ、響く。

でも、なんとなく感じてきたことと、それがきっちりと納得のいく言葉で表現されていることとの間には雲泥の差がある。そこでわたしは保坂氏が文章にしたものを読むことで、「泥」が多少は引き上げられた。感覚が思考に繋がり始めた。

今日は昨日読んだ本をもう一度初めから鉛筆片手に読み始めた。わたしは本に線を引きながら読むことはほとんどしないのだが、どういうわけか、線を引きたくなった。線を引くということは、「そうだ」という感動もあるが、また後でそこに戻りたいから引くのだ。完全に自分のものとはなっていないので、また後で繰り返し考えたいと。

これは余談だが、若い頃に持っていた聖書は読んだページのほとんどに線が引かれ、引いた線の脇に別の色でまた線を重ねるという徹底ぶりだった。それだけ「分かる」と同時に「分からない」「もっと分かりたい」という気持ちが強かったというわけだ。

保坂氏の著作を読んでいて、聖書に没頭していた時の読み方が戻ってきたのだと思った。表面的なところで「分かる」のではなく、そこから自分自身の思考へと広がってゆく感じ。その時はもう文章からも離れて、心はずんずん別のところに分け入ってゆく。

「小説とは、‘個‘が立ち上がるものだ・・・・・・・つまり、人間に対する圧倒的な肯定なのだ。」

たとえばこの言葉は固定された知識としてはわたしの中には入ってこない。そうではなくて、この言葉はわたしの中で動きを生み出す。心はバンとひとまわり広がり、頭は生き生きと考えることを始める。


たりたくみ |MAILHomePage

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