たりたの日記
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2003年11月04日(火) |
水のこと、癒しのこと |
今日はまだ11時半。いつもなら10時半までファンクのクラスを取ってそれから一時間サウナや風呂に入るから、帰ってくるのは12時くらいになるのだが、あまりに、体育会系に偏っていることを少し反省して、あまり夜遅くまでジムにいないようにしようと思いはじめている。
しかし運動の後の一時間の入浴時間ははずせない。この時間は考えるのにとてもいい。いろんなことに気づく。きっと水(お湯だけど)の中にいるっていうのがいいのだろう。水が嫌いな人なんていないだろうが、わたしは水、あるいはお湯の中に浸かっているという状態がかなり好きで、そうでない時はいつもその状態にあこがれているようなところがある。水は見るのも好きだ。海でも川でもそれこそプールの水でも、水面の表情やそのゆらゆらとした動きなら一日でも見ていられるような気がする。
そういえば、1年くらい前に、江本勝という人が書いた「水は答えを知っている」という本を本屋で見つけ迷わず買ったのだが、それは水に言葉が通じるというなんとも不思議な本で、水に「ありがとう」と声をかけると水はとても美しい結晶を作るのに「ばかやろう」という声をかけると、ばらばらな無秩序な形になり結晶ができないといった実験の結果を写真を見せながら説明している。つまり、ポジティブな言葉とネガティブな言葉に対して、水が異なる反応をするというのである。
世間はこういう本をすぐにトンデモ本の仲間に入れようとするが、わたしはこの本を読んだ時、「やっぱりそうか」と思ったのだ。植物に言葉というか気持ちが通じるというのは植物とのかかわりの中で体験していたし、同じように人間の体に対しても、気持ちがいろんな具合に作用することを感じてきた。水だって石だって働きかけや心の通じ合いは可能だと考えることの方がわたしにとっては自然だ。これはアミニズムとは異なる。水や石や木を神にするのではない。そうではなくて、水や石や木も命のみなもとである神(宇宙と言う人もいるだろう)がはっきりした意図を持って創造したものであるから、そこと繋がっているのだと思うのだ。むしろ創り主を忘れて生きているわたしたち人間よりはもっと神に近いのではないかしら。命の源から発してすべてのものが繋がりあっている・・・・・
先週の金曜日の夜のこと我が家の青年Hが電話をかけてきた。ガールフレンドのKちゃんがお腹が痛いっていってるからわたしにヒーリングをしてあげて欲しいというのだ。それが効くかどうかは別としてわたしは家族の要請があれば痛いところに手を置いてヒーリングをしてきた。それだって何もわたしが特別な力を持っているわけではない。ただ人間は人間の体と意思疎通ができる可能性を持っていると信じているから、体の痛いところに手のみならず、気持ちを注ぐ。わたし自身がそれを癒すのではなく、わたしはあくまでそれを癒すことのできる創造主、つまり神に癒しをお願いするのである。ということはこれは祈りに他ならない。
Kちゃんが家に来たので、まずいっしょにクレンジングをした。これは水をイメージして自分の体の内部を汲まなく洗ってゆくという瞑想。これをすることで、自分の体と意識的に繋がることができる。痛いということは、体が起こしているサインなのだから、まず、そのサインに対して頑なに抵抗するのではなく、まず、そこにあるものに耳をすましてみるということがまず大切だと思ったからだ。kちゃんは深い瞑想に入ることができたようで、目覚めた時に、別の世界からズンと着地するような衝撃を覚えたようだ。そのクレンジングが終わった後、彼女の腹部の痛みがあるところに手を置いて、その癒しを祈る。手から伝わる気(エネルギー)は熱く感じられるはずだ。
「わたしができるのはこれだけ。痛みを止まるかどうかは分からないけれど、あなたが自分の体を愛し、身体にどうやって働きかけるのかそれをお伝えしたの。痛みや病気はあなたに体が訴えるサインだと思ってそこに素直に向かってみて」 わたしが言ったことを彼女は分かるような気がすると受け入れてくれた。もちろん彼女に明日にでも医者に行くことを勧めたが。 医者はその痛みがどこからくるのかその原因を突き止め、それに対処すべく薬を処方してくれる。しかし、その上で自分自身がすることがある。自分の身体にポジティブなエネルギーを送ること。つまり具体的に愛を示すということ。
水に「ありがとう」と声をかけることで水がそのことの応答のように美しい結晶を作るのだとしたら私たちの身体は半分以上が水なのだから、自分の身体に愛情を持って接することで身体は喜ぶに違いないと思うのだ。 さて、こんなことを書いておきながら身体に充分な睡眠をあげないのはまずい。さて、今日はここまでにしてベッドへ行こう。
おやすみなさい。
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