たりたの日記
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2003年10月29日(水) |
映画「死ぬまでにしたい10のこと」を観て |
今日は何としてもこのことを書こうと午後からずっと考えていたものの、キーボードの上に指を置くと、いつものように軽やかに打ち始める指のリズムがやってこない。深く息を吸い込み、吐いてはまた吸い込み、そして心の内側に視線を向け、祈るような気持ちで、おもむろに指を動かし始めた。
今日観た映画「死ぬまでにしたい10のこと」を書こうとしているのだ。 原題は My Life Without Me, わたしのいないわたしの人生。 主人公アンが生き切ったlifeの重みが深夜になっても、まだわたしの体の中に残っている。 たかが映画、スクリーンの向こうにある虚構の世界。しかし時に映画や物語はわたしたちが生きているこの場所よりもはるかに現実的な世界へ我々を引っ張り込む。
この映画が観客を引っ張り込んだ場所はあと2ヶ月に限定されてしまったアンの人生だった。観客はいやがおうでも、彼女の死に向かっての歩みに寄り添って歩まねばならない。しかしこの限られた命のことを知っているのは彼女と主治医の他は客席にいる観客のみ、彼女の死を知らない2人の小さな娘たち、失業中の心やさしい夫、不幸の中に閉じこもる母親と10年間刑務所に服役中の父親、そして彼女の恋人、その人たちにやがて襲ってくる激しい悲しみや喪失感をも先取りして共有していかなければならない。哀しい。つらい。
泣いているのは私だけではなかった。右隣にいる友人のFも、左隣の見知らぬ女性も泣いている。恐らくは客席中の大方の人がむせび泣いているのだろう。凝縮されたような共感の空気がそこにはあったから。映画館はレディースデイの午前中、大方の観客は主婦であったり、母親であったりだろうから、なおさらのことだったのかもしれない。母親の子どもにたいする愛情は等しく共感できる。
アンは自分の命が2ヶ月で終わるということを知った時、自分を哀れむことをきっぱりと断念し、やりたいことを10項目リストアップする。そして密かにそれを実行していく。自分がいなくなった後の彼女の人生,my life without meを想定しながら。 子ども達の記憶の中に生きる母親としての自分を良いものとしたい。彼女のいなくなった後 彼女の代わりとなって夫や子ども達を愛し、また愛される女性を見つけておきたい。 そして、誰かを自分に夢中にさせたいという健気な項目もそこにはあった。17歳でファーストキスの相手の子どもを産み、19歳で次女を産んだアンはそれからは育児と生活に追われるばかりの日々だったから。彼女の心と身体は燃え立つような恋愛を必要とした。
主治医から死の宣告を受けたアンの表情がゆっくり変っていく様子をカメラは時間をかけて捕える。そして画面には、戦場へ赴く戦士の顔のように、甘さのない、ふっきれた顔が映し出されている。死を積極的に迎えようとするその潔さ。泣いている時間なんてない! 観ている者も彼女といっしょに立ち上がる。
アンは死んだ。娘たち、夫、母親、恋人にメッセージや歌を録音したテープを残して。 映画は終わり、彼女が描いたmy life without meがそこから始まる。アンはいないけれど、でもいるのだろう。家族や恋人の中だけでなく、彼女の最後の2ヶ月を共にした観客すべての心にアンは生きるのだろう。そして彼女の生きた2ヶ月間は、生きるということがどんなにすばらしいことなのか、私たちに与えられた命がどんなに煌めいているかを示し続けることだろう。 彼女はみごとに彼女の死を死んだ。
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