たりたの日記
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2003年10月27日(月) |
クミコが歌うシャンソン 「わが麗しき恋物語」 |
昨日から今になっても、頭の中で鳴っている歌がある。
クミコが歌うシャンソン「わが麗しき恋物語」 バルバラの曲に覚和歌子が作詞したもの。
映画にしろ小説にしろ、びえびえと泣くわたしをクスリと笑い、本人はいたってクールという連れ合いが、ラジオから流れてきたこの歌を聴いて不覚にも泣いたと、このCDを買ってきた。
そういう前置きを聞いてしまえば、泣けるものも泣けはしないだろうと思いつつ聴いたが、わたしも泣いた。もう何回も聴いたはずなのに、連れ合いもまた泣いていて、わたしたちはそれが可笑しく、泣きながら笑った。
バルバラのシャンソンは20歳の頃からずっと聴いている馴染みの歌で、この「わが麗しき恋物語」もすっかり聴き慣れてはいるものの、フランス語がさっぱり分からないわたしは、その言葉の響きや音を楽しんでも、そこに語られている詩を旋律とともに味わうことはできない。だから器楽曲を聴くような調子で、音だけを楽しんでいたのだった。
しかし、日本語でクミコが歌うシャンソンは曲よりもむしろ言葉が先に入ってくる。そうするとその言葉の向こうには映像が浮かび、またそこで歌われている男と女のずっしりと重い人生が押し寄せてくる。
そういえば、「千と千尋の神隠し」を観た時、最後のテーマソングを聴いた時にボロボロと涙がこぼれて止まらなかった。言葉に反応した。あの詩を書いたのが覚和歌子だった。彼女からは泣かされてしまう運命にあるようだ。 今手元にある詩集「0になるからだ」もその文字の連なりに心を揺さぶられる。
クミコの歌もまたいい。バルバラの歌の味わいとはずいぶん違うが、シャンソンの持ち味を損ねることなく、みごとに日本語のシャンソンをクリエイトしていると感じる。
この歌がずっと鳴り響いていたせいだろうか。 わたしはゴザンスというライターのサイトの「ことばあそび」で愛する女を失う男の詩を書いた。どういうことばあそびかといえば、お題が決められていて、その言葉ひとつひとつから始まる言葉で文章を綴っていくというもの。 今回のお題は「くだものみたいなくちびるに」だった。
書いたついでに、ライター登録をし、投稿までしてしまった。 こういうことに関してはおそろしく行動力を発揮する。これから先、そこで書くかどうかも落ち着いて考える間もなく空の鳥と野の花とというページまで設けてしまった。これはいわゆるメルマガで、登録すれば、わたしが書いたものが随時、メールで届くらしい。 となれば、これはもう書くしかないな。
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