たりたの日記
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2003年10月23日(木) 「9歳の危機」で出会ったのは「鳥の眼」だった

昨日の日記でシュタイナーのことに触れたが、シュタイナーの言う「9歳の危機」のことで今日はひとつの発見があった。

シュタイナーによると、子どもは幼児期、母親の中から出ていこうとし、やがて、母親を背中に感じるようになる。さらに9歳ごろになると、もう母親のひざから立ち上がり、母親の隣へと来る。ちょうどこの時期、子どもは自分の周りにいる人たちが、自分とは別の人であることを実感するようになり、その時はじめて、「死」の恐怖を味わい、孤独感や寂しさに襲われるのだという。

わたしはこの「9歳の危機」の話を、シュタイナー学会が主催したある講演会で聞き、かなりの衝撃を覚えた。
それというのも、私自身が、この「9歳の危機」に見舞われたことを、鮮明に覚えていたからだ。覚えているだけではなく、そこの記憶に引っかかっりを持っていた。

わたしの記憶というのはこうである。
9歳の頃、不意に暗い気持ちに襲われるという状況にしばしば陥った。それは友達と遊んでいる最中だったり、家族揃って食事をしている最中だったり、おおよそ何の脈絡もなく、まるで発作のように起こるのだった。
一旦、その気分に襲われると、ちょうど金縛りにあったような感じで、自分ではどうにも振り切れないのだ。もう友達といっしょに遊べない、食事がどうしても喉を通らない、というフリーズ状態になるのである。

そういう時のわたしは、まるで追い立てられるようにその場を離れ、とにかく、高い場所を探してよじ登った。幸いわたしの生まれ育ったところは山にぐるりと取り巻かれており、家も丘の斜面にあったので、家の脇をずんずん登っていけば、すぐに丘の上に立つことができた。そしてそこから下に広がっている町並みや田畑をはるかに見下ろすのである。そこにたくさんの家があり、人々の暮らしがあり、その上には共通にどこまでも広がる空がひとつづきに繋がっているのを見ると、不思議なようにそのフリーズの状態が解けた。呼吸が楽になり、暗い恐怖は消えていた。そして、何もなかったかのような心持で丘を降りて遊びの続きをしたり、食事を続けたりしたものである。

講演の中で「9歳の危機」の話を聞いた時、わたしが襲われた発作のようなものが何に由来するものかが分かって、なにか霧が晴れるような気がしたのだ。そしてちょうど9歳の頃、教会学校へも毎週通うようになり、聖書の話や神のことを求めて聞くようになったことも納得がいった。しかし、今日まで、どういうわけで丘に登ることで、その状態から解放されていたのか、そこの部分が分かるようでいてもうひとつはっきりしないままだった。

昨日、ワタナbシンゴさんの日記魚眼鳥目
で紹介されていた、にしはらただしさんの日記散歩主義を最初のものから読んでいくうちに、2001年8月24日の「鳥の眼」と題された日記に行き当たった。それは「俯瞰」について様々な方向で、また様々な人々の有り様を通して述べられている興味深い記述なのだが、朝読んだこの内容を風呂の中で(風呂で考え事をする。今日は午後のジムの風呂の中だった)反芻しているうちに、その「俯瞰」のことが、わたしの「9歳の危機」の記憶に突然結びついたのである。

>神とはまさしく自らを含めた『俯瞰する眼』の中にいる。


そうか、あの時、丘に登ってその地点から下を見た時、わたしは鳥の眼を持ったのだ。親や友人が遠のいてしまい、全くの孤独の中に閉じ込められた時、この世界を創り、すべてを支配している神をその「俯瞰する眼」の中で感じ取ったのだ。そして、それは親から離れて神へとのかかわりを持ち始める、大切な入り口だったのだ。
この発見をとてもうれしく思った。どこかですでに感じてはいても、それが
言葉にフレーミングされる時、その漠然とした想いがくっきりとした絵になって修まるから。わたしはようやくわたしの「9歳の危機」の記憶の呪縛から切り離されたのかもしれない。


にしはらさんは日記をこのように結んでいる。

>結局、「鳥の視点」とは魂の視点だと思う。
>世界と溶け合っている「もう一人の自分」の眼なのだ。
>ぼくは、ぼくたちは「その眼」からなにを紡ぎ出すかなのだと思う。
>常に「俯瞰」を意識する。そこからもういちど羽撃いてもいいんじゃない
>か。そんな気がしている。

もうあの9歳の時のような激しさで闇に心が支配されてしまうことはないまでも、、時としてふっと空虚な感覚に襲われることはある。そんな時、わたしは、空を見上げたり、木の幹を撫でたり、また草花の香りを嗅いだりと、自分の外に広がっている世界に一歩出ることで、またそれをイメージすることで、垂直な線を取り戻そうとする。
これはまた世界と溶け合っている「もう一人の自分」をそこに見つめること。つまり「鳥の視点」で見ようと、視点を正しい位置に戻そうとする営みなのだ。



たりたくみ |MAILHomePage

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