たりたの日記
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2003年09月25日(木) |
セクシュアリティー.ワークショップに参加する |
会議の2日目、セクシュアリティー.ワークショップに参加する。 ステレオタイプにクリスチャンを見る人なら、なんでクリスチャンの集会にセクシュアリティー.ワークショップなどというものがあるのかと不信に思うかもしれない。
わたし自身10年ほど前、たまたまニュージャージーの友人の家に滞在中に、彼女の所属する教会でセクシュアリティーについての学習会があるというので参加した。その時、ゲイのカップルとレズビアンのカップルをゲストとして招いてのパネルディスカッションに参加したのだが、度肝を抜かれた感があった。もともとマイノリティーを受け入れ、差別を無くそうという取り組みはキリスト教会のお株だから、セクシュアル.マイノリティーの人達をどのように受け入れ、どうかかわりあっていくかは当然話し合われなければならないことなのだが、その当時はわたしの周辺にある日本の教会では教会の中でこのようなテーマでまじめに話し合われることはまず考えられないことで、アメリカの教会の取り組みに、またごく自然に自分たちのセクシュアリティーやパートナーシップについて語る同性愛のカップルに圧倒された。
まだまだ私の通う教会や教団で、この問題が取上げられるところまでは至っていないが、別のグループではすでにセクシュアルマイノリティーのクリスチャンが自分の立場を明らかにし、そこにある差別に対して行動を起こしている。このワークショップを主催するTさんは、トランスセクシャル.レズビアンで、牧師の資格を有し、キリスト者としての立場で、セクシュアルマイノリティーの人たちが受けている差別や無理解を改善すべく、講演やワークショップなどの活動をいている。
このワークショップに出てみて、改めて性の多様性を思った。この社会は白と黒という具合に人間を男性と女性とに分けることで成り立っているが、実際はこの黒と白の間に名前がついているだけでも医学上10通りの性が認められているのだ。その白と黒の中間に属するいわばセクシュアル.マイノリティーの人たちはそうでない人間が「当たり前」と疑わない社会の規範の中で大きな苦しみや葛藤があることを知る。
例えば、選挙の投票用紙、定期券、その他、取り立てて性別を明らかにする必要性がないところでも、まず、男か女のどちらかをチェックしなければならない。大多数の人にとっては自分が男であるか女であるかを明らかにしなければならないということに何の問題も感じないだろうが、セクシュアル.マイノリティーの方々にとっては、それは痛みになる。 多数であることで普通であることで、そうではない人たちを無視する、あるいは無意識のうちに差別するということは、あらゆるところに潜んでいるに違いない。 そういうことに対してセンシティブになるためには、実際マイノリティーの方々と会い、理解を深めていくことが何はともあれ必要だと感じた。
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