たりたの日記
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2003年09月09日(火) 小説の主人公に腹など立ててどうする!とは思うけど

たまに、その人物が小説の登場人物だというのに、恋をすることもあれば、煮えくり返るほど腹を立てることがある。

つい、先ごろ、今年の芥川賞受賞作品の「ハリガネムシ」を読んだ直後の気分を日記に書いたが、その時、「吐き気をもよおすほどの嫌悪感」という表現をした。しかし、今になってみると、その主人公慎一にむしろ愛着を感じている自分に気がつく。慎一は、恋愛感情があるのでもないのに、たまたま出会った娼婦サチコの生活をまるごと抱え込むはめになる。 堕ちてゆく自分を認めながらも、彼女を棄てられない。まるで泥沼なのだが、そこに薄ぼんやりと光っているものが認められる。慎一が一言も語ってはいない、読者にもそれを期待してはいないだろうが、それは愛、たぶん。

一挙に慎一のお株が上がった理由は最近読んだ遠藤周作の「わたしが.棄てた.女」の主人公、吉岡に会ったからだ。わたしはこの小説を「怒りのモード」で読み終えた直後に、ついこの前読んで、もう2度と開くことはないだろうと思っていた「ハリガネムシ」をまた開いた。慎一に会いたいと思ったのである。世の中の男が何も吉岡のような男ばかりではないということを実感したいと思ったのかもしれない。

わたしはどういうわけか激しく吉岡に嫌悪した。しかし吉岡は戦後すぐの時代に生きる青年。この嫌悪感はその時代のもう過ぎ去った男の有り様に対してであるかもしれない。だとすれば、わたしはその時代のひとりの男の姿、彼の口調をそのまま用いるなら「誰だって、男ならすることだから、俺だけじゃないさ」というところのその時代を生きた「男」に嫌悪したのだ。

ところがこの嫌悪感をそのままに、その本が話題になっていたマキさんの掲示板に書いたところ、その本を愛読書だとするKを落胆させてしまった。その反応自体が受け止めきれないものの、わたしは男性のプライドを傷つけたのだろう。だからといってわたしが強く感じたものの正体を突き詰めないわけにはいかないと感じている。そこにはまだ解決がついていない、向かい合わなければならない問題が潜んでいると感じているから。

ここのところ頭は吉岡のこと、この吉岡が代表するひとつの男の在り方に対してめまぐるしく動いている。書くことで解きほぐしていきたいのだが。



9月6日のカキコミ。これがそもそものスタートだった。

「マキさん、今日は送ってくださったビデオの中にあった「泣かないで」を見ました。そのタイトルに逆らって、泣きに泣きました。わたしの泣きのツボは一般的な泣きのツボと微妙なズレがあるようなのですが、それにしても久々の大泣きでした。このミュージカルの原作の遠藤周作の「私の棄てた女」は学生の時に読んだのですが、決して遠藤周作は嫌いではないのに、あの作品を読んだ後の後味がイマイチ良くなかったのです。けれど、ミュージカルには全然別の感動がありました。もう一度原作を読んでみる気になりました。」



9月8日のカキコ

ところで今日、わたしが大泣きした「泣かないで」の原作を読み直したのですが、泣けないどころかこの主人公の男を張り倒したい衝動を禁じえなかったわ(苦笑)

遠藤氏も大したものです。これほど男のこすさとみじめさを書ききっているんですもの。
張り倒したいほどの嫌悪感を彼が読者に与えたかったどうかは別にして、この本が出版された当時に比べると、男と女の力関係やセクシュアリティーもずいぶん変ってきたんだなあと改めて思いました。わたし自身、学生の頃この本を読んだ時には「後味の悪さ」くらいでこれほど主人公に怒りを覚えなかったというのは、私自身が変化したということなのでしょうね。

冒頭の部分で、愛してもいないミツを騙してその身体を奪っておきながら、「...ぼくは今あの女を聖女だと思っている。」と告白するその男の身勝手さと鈍感さ。聖女だと宣言することで、どこか自分自身の罪を薄めようとするずるさが見えてしかたない。

この主人公のように言葉巧みに女をその気にさせてゴミのように捨てる男は睡眠薬で眠らせて強姦する男よりもっと罪は重いという気がするんですけれど...

今日はいつになくお怒りモードのたりたでした。きっと満月が近いからだわ。



9月9日のカキコ

遠藤氏が生きてらしたら、さっき書いたようなことをきちんと向かい合ってお話したい気がします。彼の作品の批判をしているわけではなく、あの登場人物の吉岡にわたしがどいういう印象を持ったかということを。案外、喜んで聞いてくださるような気がします。私は遠藤氏には他の男性作家とは異なるシンパシーを感じていますから。一番好きな作家、高橋たか子さんの友人ということもありますし。
しかし、遠藤氏も「わたしが.棄てた.女」を書いた頃と最後の作品の「深い川」では女性の見方や言葉の用い方もずいぶん変化していますよね。晩年になってからの神秘主義の影響の部分はかなり興味深いものがあります。まだ生きていらしたら、さらに変っていかれただろうにという気がします。




この日記にも遠藤周作氏は登場してくる。わたしが敬愛する作家であることは
変りない。だからこそ、わたしが吉岡に抱いた嫌悪感、この小説の内側にあるものをよくよく探ってみたいと思うのだ。





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