たりたの日記
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2003年08月21日(木) 「ハリガネムシ」を読んだ今日は

今日は一日、何か心にどんよりと雲がかかっているような、真っ暗な黒い穴を見つめているようなむさむさとした感覚があった。

いつもの木曜日だから、朝からジムへ行き、ラテンの情熱的で陽気なリズムに乗っておもいっきり踊り、くるくると右に左に回転するカロリーバーナーエアロに至ってはその動きについていくために、他のあらゆる思索を頭から追い出した。しかし、そうして身体を動かした後も、そのうっすらとした虚無感はなくなってはいなかった。

そうだ、と思いあたった。文芸春秋の9月号に掲載されている今年の芥川賞受賞作「ハリガネムシ」を、空いた時間を埋めるように数ページつづ読んでいたのだった。きっとこの気分はその小説の世界からの影響だ。

自分と遠くにある世界だった。しかし、うっちゃることもできないで読み進めた。気が付くと、その登場人物達がわたしの日常の中にぴったり張り付いていた。別の世界の人達と感じる一方で、その存在をえらく生々しく感じる。暴力や虚無やどろどろとした性欲や、おおよそ近づきたくない世界がその印刷された文字の上に生々しく存在し、それはそこだけに留まらず、わたしの日常の時間の中に侵入してきていたのだった。

電車の吊り革広告に芥川賞を受賞した吉村萬壱氏の写真が大きく写っていた。養護学校の教師をしているという作家は頭にバンダナをかぶり、さわやかな笑顔を見せていた。いい仕事をしている教師だなという第一印象だった。その顔を見て、受賞作品を読んでみようという気になったというわけだ。電車を降りて、そのまま本屋へ行き、平積みにしてある文芸春秋の山から一冊取上げ、カウンターへ持って行った。さわやかで健康的に見える養護学校の教師が書いたというそのことだけで、わたしはそこに共感できる世界があるということを疑ってもみなかった。

わたしの予想はみごとにはずれ、わたしとしては見たくもない世界を見せられてしまったが、この世界が紛れもない人間の真実だということは分り過ぎるくらいに分る。そうして直視しなくてはならないのだとも。
氏はこれまでに三作書いているが、テーマは一貫して「暴力」であると語っている。その暴力の生まれる心のありどころを冷徹に見つめている作家の目を思った。

一方で人間がどれほど美しいかを書く作家や詩人もいれば、人間がどれほど醜悪であるかを描き出す作家もいる。筆に力のある人は揺らぐことなく、それを書ききることができるのだろう。どんなにわたしが健康的にわたしのリアルな時間を過ごしていても、その合間に読む文字から立ち上ってくる「病み」に少なからず影響を受けるほどに。吐き気をもよおしてしまうほどの嫌悪感を感じさせることに成功したこの小説は受賞に値する作品なのだ。

「熱いか冷たいかであれ」
ここにもこの言葉が入りこむ。





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