たりたの日記
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2003年06月01日(日) |
Sと深川めしを食べて舟越桂を見る |
昨日のこと「たりたガーデン」の常連ともいうべきSが上京してくることが分り、急遽Sとオフで会うことになった。今東京都現代美術館で開催中の舟越桂の彫刻展をメインに、時間があれば神田の古本屋街で高橋たか子の著書を掘り出そうという算段で神田で待ち合わせをする。
さんざん、言葉のやり取りをしながら相手の顔も声も知らないといった人との関係をこのところ結びつつある。顔や声を知らなくてもその人のエッセンスのようなものは言葉の中から充分感じ取れるから、それはそれで何の不自由もないと思っているが、もし会うチャンスがあるのならそれをみすみす逃すのはもったいない。短い人生の中でクロスする人間はそれほど多くはないのだから、会えるのならば、オフでも会いたい。
ネット上ですでに知り合いになった人とオフで、つまり実際に会うという場面はこれまでに何度か体験してきて、その度に感慨深いものを感じてきたが、今度もまた、オフで会うことができてよかった。言葉が受肉したと言えばいいのだろうか。言葉と人とがそこで繋がる。なにか昔から知っていたようななつかしさを覚えるのもこういう出会いの特徴。
まず、木立のトンネルの中、深川江戸資料館通りを歩き、深川江戸資料館前の深川めしを食べさせる料理屋に入る。私たちがそこに着いた時にはすでに6人くらい人が待っていた。店内は狭いが、いかにもここでしか食べられない郷土料理といった雰囲気なので、おしゃべりをしながらしばらく待つことにする。 深川飯は初めて食べるものだったがもともとの深川飯はあさりの入った味噌汁がご飯にかけてあるぶっ掛け飯で、それとは別にあさりを炊き込んである炊き込みご飯の深川飯がある。私たちは欲張って両方のどんぶりがセットになっているお膳に決めた。宮崎の郷土料理にも冷汁という同じような食べ物があるが、それとはまた一味違ったこのぶっかけ飯、その甘辛い味噌汁はあさりの出しが効いていてなかなか濃くのある味だった。それにしても東京というローカルの持つ郷土料理の土臭さが何か新鮮でもあった。
その通りをまっすぐ行くと目の前にモダンな建物がドーンと出現する。これがうわさに聞いていた東京都現代美術館。ニューヨークのグッケンハイム美術館やモダンアート美術館、また新しくなったルーブル美術館を髣髴させる建物だった。
舟越桂の彫刻展はかなり人が入って込み合っていた。「永遠の仔」の表紙の彫刻が舟越桂という彫刻家によるものだということは最近知ったが、何年か前にこの本の表紙を見た時に、この彫刻が持つ不思議な雰囲気に惹きつけられた。しかしその惹かれ方というのが、かつて私の中に鎮座していたある感覚を呼び起こすもので、その果てしなく虚ろな虚無感になにかぶるっと身震いする感覚を覚えたのだ。そしてその感覚故に私は話題になっているその本を一度手にしたものの、読み進めることを止めた。
本の表紙になっていたその彫刻と同じ匂いを持つ人の顔がいくつも並んでいた。それが人間の深いところにあるものを引き出していることは良く分かる。どの口にも漂っているひとつの淋しさや虚ろさ。目は遠くを見ているが、その視線は空の空ともいうべきところに注がれているように見える。命がやって来た方向ではなく、死んでゆく方向へと。しかし、この2つ方向は決して両極端ではない。むしろ限りなく近いところにある方向。ひとつの端がくるりと回ってもうひとつの端に届くはずなのだ。この虚無を通り抜けたところに広がるもうひとつの眼差しがそこには見えないまでも内包されてはいないだろうか。今後の作者の作品に注目していきたいと思った。
美術館をSと夫と3人で歩きながら、いつか同じようなシチュエーションがあったことを思いだした。アメリカ滞在中、ニューヨークのオイリュトミー学校で開かれたサマースクールに参加した時のこと、そこで友達になったジュリーという同世代の女性がそのセッションの帰りに我が家で一泊し、翌日いっしょにメトロポロタン美術館へ行った。ミネソタに住む彼女はNYの美術館は初めてだというのでその日ミネソタへ返る飛行機の時間までの間、美術館に案内したのだった。
そういえば、ジュリーもSのように60年代から抜け出してきたような格好をしていた。何か妖精めいていると思ったことまで似ている。
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