たりたの日記
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2003年05月02日(金) |
草をむしりながら広げてしまった大風呂敷 |
母が生まれ育った生家を訪ねる。私は15年前に祖母の初盆に来たきりだ。久しぶりに伯父や伯母や従兄達に会う。
広い座敷の一角に大きな仏壇があり、まずその前に座って線香をあげるというのがこの家の、そしてそれを継承している母のしきたりだ。母は今でも子供の頃教えられた通り朝は一番に入れたお茶と炊き立ての御飯を仏壇に供えている。母が子供の頃から朝に夕に手を合わせ、信仰心を培われたその仏壇に私もまた手を合わせた
しかしこの家で親から子へと脈々と受け継がれてきた信仰を私は受け継がなかった。21歳の時キリスト教の洗礼を受けたのだ。当然親は反対し、悲しんだ。
確かに親と子で信じるものが違うというのは不幸な事なのかも知れない。それが先祖崇拝であればなおさらのこと。死んだ者は家族の供養によって浮かばれるというのだから、親不幸と思われてもしかたない。しかしそれでも譲れないものがある。
ここ日本に於てはキリスト教徒は僅か1パーセントにも満たない。マイノリティーもいいところだ。幸い憲法で信教の自由が保証されているからいいようなものの、それでもしばしば不理解や誤解にさらされる。
多くの日本人は自分は無宗教だと言いいながら様々な宗教行事を行う。冠婚葬祭に伴う一連の仏教行事も神社への参拝も日本人なら当然するべき事として常識の範中に入れられてしまう。 しかしこれはりっばな宗教行為であってかなり個人的なことなのだ。
日本人が自分達の宗教心に無自覚である以上、異なる宗教や信仰を持つ人間を理解し受け入れることは難しい。そしてこれはアメリカ人にも言える。しばしば習慣と信仰がいっしょくたになっている、悪いことには愛国心とキリスト教をセットにしてしまっている。
信仰とは何なのかを自分の頭で理解し、自分の心で確認していくのでなければどんな宗教も間違いに走る。それぞれの神の名の元でどうどうと殺し合い、破壊しあう。人間は進化してきたはずなのに、間違いを犯し学習してきたはずなのに、宗教がらみの醜い争いは後を絶たない。
宗教は山の頂上を目指して各々がことなる登り口から異なるルートをたどって登っていくようなものでどの宗教も突き詰めてゆけば一つの神にたどり着くとする考えがある。以前「宗教的多元論」というタイトルで日記に書いたが、遠藤周作氏が主張するその考えに基本的に私も賛成だ。
「私はどこから来てどこへ行くのか」という問いを携えて一人山頂を目指して登る時、その上り口である宗教が何であってもそこに争いや反駁は起こらずに共感と理解が生まれると信じている。 問題は山頂を目指して登り続けているかどうか、まだ到達しない山頂があることを信じているかどうかだと思う。登ることを止め、これこそが正しいと神を自分の都合のいい場所に引きずり下ろす時、そこに反駁が起こる。戦争が起こる。
あぁ、どうしよう。とんでもない大風呂敷を広げてしまった。こんなはずじゃあなかったが。
明日2日にはここ夫の実家を出て帰路に着く。今日は一日庭の草をむしり、花の植え替えをした。手を働かせながら、頭は昨日書いた続きをしきりに考えていた。草と格闘する時間がたっぶりあったので考えは取り止めなく広がってしまった。
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