たりたの日記
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2003年04月19日(土) |
その人固有の文や声があるように、その人固有の動きがある |
文は人なりと言われる。その人の使う言葉、文章、不思議なほどその人の本質、またその人固有のエネルギーが伝わってくる。しかしまた、声やしゃべり方を聞いても「あぁ、こういう人なんだ」と、文章ではひろいきれなかったところまで分ったりする。そして、動き。その人固有のリズムや動きの何と個性的なこと。その動きがやはりその人を現していることがまた興味深い。
今日は教会でイースターエッグの色染めをした後、夕方カルチャースクールのダンスの発表会を見に行く。ジムでラテンエアロを教えていただいているM先生の率いるダンスチームの踊りを見るのが目的だった。日頃、インストラクターの動きになんとかついていこうと必死にその華麗な動きを目で追ってはいるが、ステージでのダンスを客席から見るというのは初めてだった。
ステージのダンサーの中にはM先生はもちろんのこと、ラテンのクラスをいっしょに取っている顔見知りの人も数人混じっていた。今日のエントリーはラテンではなく、フリーダンスといわれるもので、むしろ私が別のインストラクターから受けているファンクに近いものだった。
さすがM先生の動きは抜群に切れがいい。またきりりとした印象はアーティストだなあと感じる。私と同じ20歳の子どもがいるお母さんなんてとても信じられないほど見た目も動きも誰よりも若く見える。ピチピチと跳ねているようなさわやかな少年っぽい動きだと思った。
同じ振り付けで踊っていてもその動きはそれぞれ個性が見える。マスゲームのように全体が揃ったところに生じる美しさではなく、そこにその人固有のリズムや形があるからこそおもしろいと感じるのだろう。あえて言うなら、まねをしようという動きではなく、その動きがその人の中で自分の動きとして消化されている時、どんな人の踊りにも美しさと快さが生まれるような気がする。
ミュージカルで踊りのシーンを繰り返し練習しながら思ったことであるが、ダンスで大切なのはまねではなく、その人固有の動きを動けるようにになることではないだろうか。しかし、これはダンスに限らずすべてのことにいえることなのかもしれない。音楽も、文章も、絵も、いかにその人固有のものとして消化され、個性化されているかどうかが問題になるのだろう。
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