たりたの日記
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2003年04月12日(土) 違和感の起こらない他人を求める心

昨日HPの掲示板に2年前の6月に高橋たか子の著書について書いた日記のリンクを貼ったが、2年振りに自分の書いた文を読み返して、その時の自分と今の自分の変ったところと変らないところについて考えを巡らせていた。

高橋氏は小さい頃から、人に対して何かしらの違和感を感じ、出会う人との違和感をとおして、自分に目ざめ、他人に目ざめ、人間に目ざめ見つめることを、日々してきたという。そして、その出会いの貪欲さは、もしかしたら違和感の起こらない他人がどこかにいるのではないかという強烈な夢が彼女の一生を貫いていたからだとも。

私は彼女が語る言葉はまるで自分の内から出てきた言葉のようにことごとく共感する。2年前もそうだし、今でもそうだ。あの頃と今、何か違うものがあるとすれば、あの時点では書物の中に作家の中に高橋氏が言うところの「違和感の起こらない他人」を探していた。そうして共感できる言葉に会うと、その人の言葉ばかり浴びるように読んだ。高橋たか子もそんな一人で時折り、お風呂に浸かりたいのと同じような欲求から彼女の言葉に浸りたいと身体が欲するようだった。しかし、今、読み手として求めるだけではなく、書き手として、共感を持って読んでくれる人と出会いたいという「強烈な夢」が自分に起きていることを知る。文章だけではない。自分の作った歌に、また歌う歌に、そしてまた私という個に、違和感を持たない人をできれば共感を持ってくれる人を探し求めている。それは自分が曲りなりにも表現する者というところに立っているからだろうか。

今日、私が以前書いた日記が非常に胸に響いたと書いてくださったメールを読みながら、そんな自分を確認したのだった。そう、人と自分とは決定的に違う。違和感しかそこにはないはず。にもかかわらず、ある一点でクロスするのならば、その点ををもっと間近で見たい、その理由なりを知りたいと欲する気持ちが起こる。しかしそれこそが孤独のなせる業なのだろう。どこまで行っても一人でしかないという本質的な孤独の。





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