たりたの日記
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2003年03月11日(火) |
その人の持つさじ加減でその人の味が生まれるんだね |
次男のMが4月から一人暮らしを始めるので、自炊のトレーニングを始めた。タイミングよくヨシケイのセットメニューの5日間の試しメニューのチラシが入っていたので、即注文したのだった。あれは、一応夕食の定番が2品目、あるいは3品目、焼き物、煮物、和え物とバランスのとれた献立が組まれている。また盛り付け例の写真もあり、懇切丁寧な作り方ものっているわけだから、調理事始の人にとっては最適な教材ではなかろうかと狙いをつけた。それで2、3週間作ってみれば、どういう食品をどう調理するのか、またどのくらいのたんぱく質類や野菜類を取る必要があるのか、おおまかなところがインプットされるのではないかと思って。ああ、この母心。しかしMとすればかなり迷惑なことかもしれない。いいのだ、きっと後になって、やっていてよかったと思うのだろうから。
しかし、問題はそれをやらせることができるかどうかだ。彼はかなり頑固。 昨日はMも私も夕方3時間で時間があった。食材は12時過ぎに配達となる。そこで今日は夕食ではなく、これを昼食用に作ることにした。なにしろ、鍋や調味料がどこにあるかそこからMは知らないので、私がお料理番組の助手、あるいは家庭科の先生よろしく、隣に待機しながらの調理実習であった。
それにしても日々の料理、私は軽量スプーンなどは使わない。Mが作り方の通りに醤油を大匙一杯量ろうとしてので、「大丈夫、だいたいでいいのよ」というと。「そのだいたいの見当が付かないから、きっちり計らないとだめなんでしょ。」といわれてしまった。ごもっとも。 彼は、きっちり、砂糖や塩や酢の分量を量って合わせ調味液を作っていた。家庭科の調理実習を思い出す。
さて、この日のメニューは豚肉のしょうが焼きの生野菜添え。ちくわとれんこんとこんにゃくとにんじんの炒め煮。キャベツとわかめの甘酢和え。 豚肉のしょうが焼きはともかく、この手の煮物や和え物は我が家の青少年たちにはまずもって人気がないので、わたしもほとんど作らなくなっていた。「こんなまずそうなもん作らないといけないなんて」とぼやいていたがテーブルの上にランチョンマットをしいて、少ししゃれた皿や器に盛り付けると、結構色どりも美しく見栄えよく整った。友達に自慢しようというのだろう。Mは携帯のカメラで自分のこしらえた料理を写真に収めていた。
この味、お手本どおりとはこういうことをいうのだろう。しかし、何か自分の家の食べ物という感じはしない。病院や給食の食事を彷彿とさせる。 何か、微妙に満足感に欠けるのである。ということは、いかにお手本とは違った自分のさじ加減があるかということだ。きっとわずかな差ではあるのだろう、大匙一杯の醤油がわずかに多かったり、小さじ半分の塩がわずかに少なかったりという。私はもはや軽量スプーンは信用していないから、すべては目と手と舌に頼る勘で調味する。たいていの主婦、また主夫がそうであろう。そして、このさじ加減の違いがその家々の味の違いになるんだろうなと何か納得した。
さて、M。まず、お手本どおりに調理するというスキルはあるようだし、そのことに本人も満足気ではあった。それがやがて、自分のさじ加減で自分の気に入った味が出せるようになるかどうか、そこが問題だ。もしそこまで自分の舌に合うものをさっさと作れたらこんないいことはない。どこの国へ行っても、食で困ることはないだろうから。これってしかし料理に限ったことではないなと思う。きちんと基本を抑えながら、体裁を整えながら、しかもその人にしか出せない味、人が真似できない味を出していくというのは生活全般にいえること。どんな状況が変っても、回りに振り回されず、自分のテイストを保つことができるようなそんな大人に成長してほしいなあと思う。数年後、彼がどんな味を出しているのか楽しみにしていよう。
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