たりたの日記
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いつも日記をよんでくださっているYさんから、昨日の日記のことで2つ質問があった。 私はもともと対話が好きなのに、掲示板も休んでいるし、他の掲示板でも書き込みを避けているので、対話というものがあまりなくなっていた。 質問に答えることでもう一度自分の考えを確かめてみることができる。 Yさんにはメールを出したが、彼女のお許しもあったのでここに質問と答えを書いておくことにしよう。
Yさんからの質問 1
キリストは、その女性の信仰心を、「試した」のですか。 なぜ、その必要があったのでしょう。
私は試すというところにイエスの気持ちがあったとは思いません。 試したのではなくて、この母親に一歩踏み込もうと、より深い出会いを試みたのだと思います。いわば、表面的な関係のままにとどめることなく、深い出会いを意図されたのだと。
母親は娘を救いたいがために藁をも掴む気持ちでいます。 実際、イエスのまわりにはイエスが最も伝えたいと思っておられた「魂の救い」など、どうでも良く、単に目の前の不幸から解放されたいという現世利益的なところでイエスの後につき従う多くの群衆に常時取り巻かれていたと思うのです。イエスは痛みを分る方でしたから、可能な限りの癒しの業をされたのですが、そんな中にあっても、目的は「癒すこと」「治すこと」ではなく、人々が神のもとへ帰るということ、自分の罪を悔い改め、渇くことのない命の水を得ることだと、福音を語ることを第一にされてきました。
イエスの目の前にこの母親が来た時に、イエスは直感でこの女の信仰の大きさを感じたのだと思います。けれど、単にここで治してやったなら、彼女がおそらく自分でも自覚していな魂の大きさを明らかにすることもないまま、周りの人間にもさして影響のないまま大勢の群集のひとりとしてイエスのそばを横切るものでしかなかったでしょう。
イエスはこの女の内側へ一歩踏み込むために、彼女にあのような拒否の態度を取ったのではないでしょうか。いえ、イエス自身、その女性がどれほどの人間なのか興味深いものを抱いていたのだと思います。そして、返ってきた言葉に、「やはり見込んだだけの女性だった」と思われたのではないかと思いす。 母親はこのことで娘が癒されたということ以上にイエスと人格的な交わりを果たすことができたのだと思います。このことが弟子達や他の群衆にとっても大変印象的なできごとだった故にこうして、2000年後まで語り伝えられる こととなったわけです。
ソクラテスではありませんが、その人の本質を引き出すために、わざわざ質問や反論をして弟子との間の対話を深めてゆくそういった教育的な配慮もそこにはあったのかもしれません。
Yさんからの質問 2
それから、たりたさんが「食い下がろう」と思えるほどの相手かどうかを、 どうやって見分けるのでしょう。
・・・・・・・
魂ってなんなのでしょう
私の魂の欲するところに従って、と申し上げたらいいでしょうか。 人間的なところでは、もうその人やことがらと無関係に生きたいと願っても魂の深いところで、その人やことがらとのかかわりを続けようとする自分を越えた意思のようなものが働くことがあります。
信仰を持つこと、教会を選んだり、そこに関わろうとすること、ボランティア 活動や仕事なども同じレベルにあるように思います。楽ではない道をあえて選ぶ時に起こる心の動きということも言えましょうか。
突き詰めて言えば、私が選んだのではなく神が目の前に置かれた人、あるいはことがらだと私が感じているかそれが見分けることの基準になっていると思います。
魂ってなんなのでしょうね 言葉で説明しようとしてもうまくゆかないような気がします。
神と出会う心の場所。 その人のコア、光の源。 肉体は滅びても消滅することのないもの。
いろいろに言い換えてはみますが、、、、。
Yさんへの質問にはこのようにお答えしたが、私としてはまだ答えきれていない感じがあって、昨日もこのことを考えていた。良い質問をいただいたと思う。きっといただいた質問はずっと暖められることになるのだろう。
ちなみに「カナンの女」についてはヤフーで検索すると145件も出てきた。様々な聖職者や学者、クリスチャンたちがこのテーマについて書いている。わたしが昨日と今日にわたって書いたものはあくまで私の読み取りに過ぎない。関心をもたれた方はアクセスして他の方の考えも読んでいただきたいと思う。
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