たりたの日記
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2002年09月08日(日) |
食い下がっていく強さ ー カナンの女 |
その母親はイスラエル人から疎んじられているカナン人、異教徒であった。 自分の娘が訳の分らない病に取り付かれている。何とかして娘から悪霊を取り除いてやりたいと八方手を尽くしたが駄目だった。 いったいどこでイエスのことを聞きつけてきたのだろう。母親はイエスに望みをかけ、イエスを目にすると大声で叫んだ。
「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と
なぜなのだろう。どんな時にもただちに病を癒されるイエスはこの母親を無視し、それでもしつこく哀願する母親に言うのである。
「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と。
母親は頼みの綱であったイエスに拒否される。 いったい、信頼している人間から拒否されるほど、失意の底に突き落とされることがあるだろうか。 しかも、その当時、犬は汚れたものとしての扱いを受けていた。イスラエル人を子供たちといい、この異教徒の女は犬よばわりされたのである。
「ふん、この偽善者。愛を唱えながら、あんたはイスラエル人しか助けないというのかい。みそこなったね。」 期待が大きければ、信頼が大きければなおされのこと、イエスにこんな悪態でもついて、そして信頼を寄せた自分自身にも腹をたて、早々のその場を立ち去る。これが普通の人間の取るリアクションではないだろうか。
しかし、この母親はそういう態度には出なかった。 彼女はきっと真っ直ぐな眼差しでイエスを見据えて、「あなたは決して私を見捨てない」と目で訴えながら言ったのであろう。
「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」とイエスに応答する。
この母親に対してイエスは言った。
「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」
そして娘の病気はいやされた。
私は昨日の日記で「玉の緒よ絶えなば絶えね・・・」などど短気な自分を披露した。幸いにも人との関係に終止符を打つなどという早まった行為にも及ばず、いつものようにそのことを通して自分を反省し、愛するということを学ばされたのだが、それでも昨日の今日であるだけに、おろかな我が身と引き換え、この母親の冷静さ明晰さにはっとする。
彼女はイエスの表面に現れた言葉だけを受け取ったのではなかったのだろう。その言葉を発するイエスの向こうに決して彼女を拒否することのないイエスの愛をすでに見て取ったのではないだろうか。言葉だけを受け止めて逆上することなく、イエスの本質を見抜き、そこのところに食い込んでいったのだと思う。食い込んでいく、つまり、表面的な繋がりではなく魂と魂との出会いをそこで果たしていこうとその人間の内側に飛び込んでゆくというかかわり方。
イエスはこの母親の信仰を立派だと評価する。この立派という言葉はギリシャ語でメガネーといい、大きいという意味に相当するという。彼女の信仰はほんとうにダイナミックだ。ポキンと折れてしまうことのない、しなやかでしたたかな信仰。
けっしてあきらめないで食い下がっていく、どんな状況の中でも相手への信頼を失うことなく、その人の魂と繋がろうとする。そのようなしなやかさを、そして強さを自分のものにしたいと思った。
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マタイ15章21〜28 ◆カナンの女の信仰 15:21 イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。 15:22 すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。 15:23 しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」 15:24 イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。 15:25 しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。 15:26 イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、 15:27 女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」 15:28 そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。
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