たりたの日記
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2002年08月11日(日) たとえ話

「イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。それは、預言者を通して言われたことが実現するためであった。「わたしは口を開いてたとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる。」

(マタイによる福音書13−34、35)

今日の礼拝の説教ではイエスのたとえのことが語られた。「たとえ」という言葉は新約聖書に50回使われているがそのうちの48回がイエスの言葉を記した福音書の中で使われているという。

たとえを用いて話されたことにはそのたとえの奥義が分る者と分らない者とを分けるという意味があるという。難しい抽象的な言葉ではなく、具体的な日常目にするものを用いて語られる奥義なのである。

知識があっても学問があってもその奥義が分るとは限らないし、何も知らない子どもがその意味するところをキャッチすることだってある。わたしたちはたとえに隠されているほんとうの意味をいったいどこで捉えるのだろうか。インスピレーション、私たちの内にあるものによってではなく、吸う息のように外から身体の中に入ってくる力によってなのだろう。

詩を書くとき、直接的な表現を避け、メタファーを用いる。そこにはどこかで書く者と読む者の間に介入するインスピレーションを期待するからなのかもしれない。しかし言葉は難しい。ほんとうに難しい。伝わっているはずと疑わなかった言葉がことごとく届いていなかったことを知る時、私はあまりにインスピレーションに頼り過ぎていたかもしれないと反省する。だからといって直接的な表現だと伝わるのだろうか。そうでもないような気がする。同じ日本語を用いながらも人それぞれ言葉を取り出す心の場所に違いがあるからだ。時として科学者の言語はそれとは無縁の者には理解できないのだろうし、男は女の言語を理解するのに支障があるのかもしれない。親子の間でさえ伝わっていかない言葉の前でお互いに途方に暮れる。にもかかわらず、相手に向かって様々に言葉を伝えようとすることを止めない。

イエスの言葉もほんとうのところをどれほど私は理解しているのだろう。分っているつもりでまだその奥義のはじっこをやっと掴んでいるくらいなのだろう。理解していくための時間と経験、心の柔軟さ、そして降りてくるインスピレーションを望みながら言葉のうちがわへとさらに深く入っていきたいと思う。


たりたくみ |MAILHomePage

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