たりたの日記
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思えばここ10年ほど、あまり人と交流することに積極的ではなかった。所属していたグループから遠ざかり、それまで比較的まめにしていた電話や手紙などもすっかり億劫になっていた。人を招いたり、訪ねたりということもほとんどしなくなった。人の中へ入っていくことに疲れを覚えたし、どこかで本当の自分を偽ってしまうことに釈然としない気分があったのだ。それはある意味ではそれまでの反動ともいえる。もともと私は社交的だった。できるだけ多くの人間と関係を取り持つことを良しとしていた。でもその陰には誰にも明け渡すことのない自分がいて、その自分のきちんとした居場所を作ってやれないでいた。
いったん自分の世界に篭って扉を閉じてみるとそれはすこぶる気持ちが良かった。独りであることの豊かさを味わった。言葉も人に向けてではなく自分に向けて、あるいは遥かかなたの方へ向かって発した。自分が人にどう見えようが、どう思われようがいっさい頓着する気持ちがおこらないことは快適だった。これが年を取るということかしらと半ば人生の秋を迎える用意をしていたところがある。
ところが何かの調子にシフトが変ったのか、閉じていた扉が知らない間に開いてしまったのか、気がついてみるとあの閉ざされた独りの空間の心地よさから様々に人のエネルギーに影響を受けては一喜一憂し、、また翻弄されるいわば嵐のような場所にほおり出されていた。それは10代後半から20代前半の時の心の状況に良く似ている。聞く音楽も変ったし、自転車を飛ばしてジムに通うというそれまでの私には考えられないことを始めた。そして何より人が自分の内側に入ってくるのである。人はもはや単なる背景ではなく、生々しく私に向かってくるように感じられる。
以前、私は自分の子ども達の成長に合わせてもう一度自分の人生の生き直しをしていると書いたことがあった。そうするならば、息子達は今20歳と17歳、まさに青春真っ只中。私の生物学上の年齢やステージとは裏腹に、私は私の17歳をまた20歳を生き直しているのかもしれない。すっかり忘れていたその時期に特有なときめきや痛みや揺れ動きを再現させようとする心の働きがあるのかもしれない。
しかし10代や20代の波乱万丈を生き直すにはいささか年を取りすぎてしまっている。多少服のサイズが小さくなったところで目じりの皺がなくなるわけでもない。太るに任せてあきらめきっていたことが良かったとは思わないが、扉をしめて自分の世界に充足していた時の気分を取り戻したくもある。
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