たりたの日記
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今やパソコンが手元にない時にも携帯電話を用いてメッセージを送ることができるようになった。いつでも時間を置かずに相手に言葉を伝えることができる。しかしそれ故に、その言葉の返事なりリアクションを早急に求めてしまうという傾向がある。さすが携帯が生活の中心になっている若者達のリアクションは早い。なかなか連絡してこない息子たちも携帯メールには条件反射のように間髪入れずレスが帰ってくる。それが彼らの流儀らしい。携帯メールにそのような暗黙の了解があるが故に、何かの理由があってレスが遅れる場合も当然あるのに、そこから不安や心配が頭をもたげてくるのも事実である。自分の発した言葉に縛られていく。こういうことが予想できたので携帯電話は持たないで通すつもりだったが、旅の間パソコンから離れる不安にかられて、帰省の前日に急ぎ求めたのだった。
「花の水やりとヨーグルトの世話お願いね」
「大丈夫、ちゃんとやってるよ。」
「今おじいちゃんを海岸に連れてきたとこよ。海がきれいよ。」
「いいなあ、ぼくも行きたかったなあ」
「耳が痛い。中耳炎かもしれない」 「すぐに医者に行きなさい。抗生物質でよくなると思うよ。」
「おはよう!具合はどう?」 「耳はすっかりいいよ。ありがとう!」
「明日、帰ってくるんだよね。」 「うん、夜遅くなるけどね。」
「空港に着いたら知らせて、迎えに行くから。」 「そうする。ありがとう!」
旅先で夫や息子たちとこんな短い言葉をいくつもやりとりした。つくづくと便利なものだと思った。必要な情報の交換というのではなく、気分の伝達がそこにはあり、その短い文字の言葉が心地よい余韻として残るのだった。
言葉は伝達の役割の他に気分を伝える、見えない相手と関係を作るという働きがある。不思議なようだが携帯電話の短い文の中にその言葉を発する人の心の動きまでも見える。限られた文字の中で顔の見えない相手に心地よさや優しさを伝えるというのはそれほど簡単なことではないのだろうが、若者達は彼らの携帯文化の中で、相手と良い関係を紡ぎ出す言葉をさまざまに訓練されているのかもしれない。
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