たりたの日記
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2002年07月28日(日) わたしのもとに来なさい

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

マタイ11章28〜30


昨夜は深夜の2時過ぎにベッドに入ったものの、明け方まで眠れなかった。このところ眠りの浅い日が続いている。今日は教会学校でのオルガンと礼拝の司会に当たっているので、睡眠を取らないまま教会に行くことが不安だったが、
頭はきりりと冴えていて身体も疲れてはいなかった。しかし、何かが疲れていたのだ。今日のこの聖書の箇所が心に染み入った。

重荷、生きていく上には実に様々な重荷がある。平常を装いながらも、逞しく日常の中でその役割を担いながらも、心の中は嵐に吹かれ、息も絶え絶えであるのかもしれない。ひとりひとりの心の中のことは誰も分らない。

そういう重荷を負うわたしたちにイエスの言葉は直接的に響く。まさに語りかけられているような親密感を覚える。この「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」という言葉の元に私自身どれほど重い荷を下ろしてきたことだろうか。
なぜ、イエスの前には荷を下ろすことができるのだろう。それはイエスこそは誰も知りえないその人間の個人的な重荷の中身を知っているからだ。知られていると感じる。そのような確信がある。だからこそ、その足元に荷を下ろし休みをいただくことができるのである。

今日の礼拝の説教の中でこの「休み」ということについてこのように語られていた。この休みという言葉は「新鮮な命の力をいただく」ということであり、決してそこに立ち止まることではない。むしろ喜びを持って前に進もうという力をいただくことであると。リフレッシュという言葉のニュアンスに近いものがあると。

イエスと密接に結びついている時、わたしたちはイエスの言葉に繰り返しリフレッシュされる。新しい命をいただけるのである。重荷は無くなることはない。けれどもそれを荷って歩む力と勇気をいただくことができる。


たりたくみ |MAILHomePage

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