たりたの日記
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松戸市にある知的障害者のための通所施設「わかば園」へ見学に行く道すがら、わたしは福井達雨氏が起こした重い知恵遅れの子どもたちのための施設 「止揚学園」のことを思い出していた。福井さんの著書、「命を担ぐって重いなあ」「ぼくアホやない人間や」を大きな感動と衝撃を持って読んだのは20代前半のころ、まだ母親になる前のことだった。その後、教会学校の教師研修会で福井氏の講演と学習会に参加し、氏のお人柄に触れる機会にも恵まれた。
福井氏の障害児に学ぶ、障害児の中にある輝きを見出すという姿勢に強い共感を覚えたのだったが、その後教職から離れ、育児に追われる中で、障害児と共に歩んでいる人たちのこともその施設のこともすっかり忘れてしまっていた。ふっと記憶の底から蘇ってきたものの、今の今まで思い出すこともなかったことに唖然とした。そして、このように月日が経って、同じような施設に今初めて足を運ぼうとしていることがなんとも不思議な気がした。それは手渡されていながら忘れていた課題をようやく思い出したような気持ちだった。
わかば園の玄関に連なるホールにはアップライトのピアノが置いてあり、その前にはゆったりとくつろげるソファーがいくつか置いてある。 音楽ボランティアとしてすでにこの施設で活動を始めているWさんがピアノを弾き始めると直にどこからともなく通所生が集まってきてピアノを囲んだ。Wさんが弾く童謡に合わせて、手拍子を取りながら歌い始める。音程やリズムが思いの他正確で、歌詞に至っては正確に覚えて歌えるものが多いのに驚く。一曲歌い終わるごとに、「○○ちゃん、じょうずねえ」とは「すばらしいねえ」と、お互いに声を掛け合う姿にはっとさせられるものがあった。歌うことが、ピアノを聴くことが心からうれしいのだ。そしてその喜びを素直に分かち合おうとする。それは人間らしい姿、私たち健常者といわれるものが失っている姿でもあった。彼らといっしょに歌いながら何か豊かなもので満たされ浄化されていくものを感じていた。この日いっしょに見学したTさんとMさんも同様なことを言っておられた。ボランティアはやってあげてるというのではなく、むしろ、彼らからもらうものの方が大きいというWさんが日頃言われていることをそれぞれが体験した感があった。 Mさんもポピュラーの曲を2曲弾かれ、私も讃美歌を2曲弾いた。今度は歌の伴奏ができるように楽譜をそろえて練習もしておこうと思った。音楽を通して喜びを分かち合う、そういう音楽活動ができるとしたらうれしいことだ。
止揚学園の「止揚」とは、哲学用語の「アウフヘーベン」というドイツ語を訳したもので、ふたつの全く異なったものが激しくぶつかり合ってつぶれ、その中から今までとは違う、新しいひとつの統合体が生まれてくるという意味だという。知能に重い障害をもった子どもたちと、障害をもたない者たちとがぶつかり合い、今までになかった新しい生き方が生まれる場にしたいと願い、止揚学園と名付けられたという。 その名前にこめられた「止揚」という言葉の意味を改めて噛み締めた日であった。
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