たりたの日記
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何年か月日が経過した後、私は今日のことをどのように思いかえすのだろうか。駅で電車を待っていた時に心地よいと感じた湿り気を帯びたひんやりした空気の動きだろうか。車内で読んだ本の「内面の過越、死の世界の底の底までの下降」といったフレーズだろうか。地下鉄を降りたらすぐ目の前にそびえていた異様に大きく物々しい出版社のビルディングだろうか。それとももっと別のこと。編集者との言葉のやり取り、その大きなテーブルと窓から見える景色。初めのひとこと、あるいは帰り際のそれだろうか。 いずれにしろ、私は今日という日を一生忘れることはないだろうと思う。
その日の私はおおよそ自分の世界とは異なる場所の中に紛れ込んで、いわば夢うつつの状態であった。私がキッチンのダイニングテーブルでパソコンに向かって書いてきたもののことが話題になっているのに、何か自分の書いたものがそこにいる私とは無関係なもののような気さえして心もとなくもあった。それらは、書いたといえるものではなかった。言ってみればその日のお味噌汁を作るようなものではなかったか。実際、冷蔵庫に何が入っているかを確かめ、それでできるものを、その日の夕餉のテーブルに載せるべく作ったあり合わせの一皿のようなものだった。日常の中でその時の私の心の引き出しにあった素材をとりあえず、言葉のつながりにしたものに過ぎなかった。
編集者のKさんはそんな私の日々の惣菜のような文の束を、ひとつひとつ丁寧に読んでくださっていて、ただただ恐縮した。お金を出して買ってもらえるような本にするにはどういう方向で書けばいいのかという問いがそこに横たわっていたが、それは当然すぎるくらい当然のことだった。編集者のKさんは決して拒否といった態度を見せず、方法をさぐろうと考えてくださってきたことが感じられ ありがたかった。何ひとつ厳しい言葉を向けられはしなかったのに、私は書くということにおいて身を削るような努力をしてこなかった自分を深く恥じていた。一つのテーマを徹底的に探っていく。あるいは一つのストーリーを徹底的に書ききる、そういう厳しさをまず自分の中に養っていくことが先決だと思った。
私でなければ書けないオリジナリティー、そんなものがいったい私の内側に存在するのかどうかがまずあやしいものだが、しばらく書く内容と方向を探ってみようと思う。時間をかけて、ゆっくりと。
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