たりたの日記
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2002年05月17日(金) |
私たちは自分で選んで生まれてきたと |
だいたい親子喧嘩をする時のきまり文句が 「勝手に産んでおいて。生まれてきたかったわけじゃない」 で、さんざん、言われたし、また私も思ったり、言ったりしてきたように思う。
私はある時、子どもは親を選んで生まれてくるということを信じてしまった。 実はキリスト教にはこういった教義はない。いったいこういう考えがひとつの思想や体系として存在するかどうかも知らない。でも何かの本を読んでいて 私は啓示のようにこの言葉を受け止めた。 そうするといろんな問題が、絡まった糸がほぐれていくような気がした。
私たちがこの地上で生きる上で抱く、様々な不公平感や疎外感。自分を否定したくなる思い。しかしそこにあるのは甘えである。自分が選んだということを否定する限り、私たちは自分の持ちものに際限なく不満を持つ。自分の親、夫、子ども、仕事、容姿、金。この地上では格差があるのでどんな人間も不公平感から自由になることはできない。
でも、そのすべての持ち物や環境を選んだのが他でもない、自分自身だとすれば? 誰にも文句は言えなくなる。誰のせいにもできなくなる。
<今日、掲示板に書き込んだこと>
私たちは実は親を選んで、その環境を選んで生まれてきたとそういう見方をしてみませんか。実は姿形も能力も、病気さえも、自分がこの地上での課題を果たすために必要な持ち物として持ってきたのだと。 地上の価値観で計れば、貧乏より金持ちがいいし、美女や美男の方が愛されるし、能力が無いよりあった方がいいし、病気を持っているよりは健康の方がいいわけです。 でも、私たちが自分の魂を成長させるためにこの地上での命をもらっているのだとすれば話は違ってきます。貧乏の方が、美しくない方が、何の力もない方が、病気の方が、魂を成長させるという自分の課題を成し遂げる上ではその人にとって必要なのかもしれない。 大切なのは自分で選んだ、それを選ぶ必要があったということに気づくことだと思います。 ですから親のせいではないのです。 自分に嘆いていては自分がどうしてそれを選んだのかも見えなくなってしまいます。
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