たりたの日記
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2002年04月28日(日) 生きた石として

日曜日なのによく教会なんかに行くねえと、なかばあきれられることがある。子どもの時からの習慣とはいえ、自分でも「何を好き好んで日曜日ごとに足を運ぶのだろう」と呟きながら通うこともある。ここ数年間、正直に言うと礼拝に行くことの喜びからすっかり遠ざかっていた。神に向かい会うために行くのであるが、イエスと会いたくて出て行くのであるが、イエスや神のことが語られているその話が耳には聞こえてこないのである。喜びや慰めの代わりに苦々しさや落胆を携えて帰路に着くことの方が多かった。私の心にブロックするものがあったのだとも思う。

今日、説教を聞きながら(手はできるだけ多くの言葉を書きとめようとそれは忙しく動いていたが)私はビエビエというふうに泣いた。泣けてしかたがなかった。少しもエモーショナルになる話ではないのだが、自分でもここで泣くのは変だと思いながらも泣くことを止められなかった。言葉が聞こえてきたからだ。水のように私の内に染み渡ってきたからだ。これまで霊的にどんなに乾いていたか、どんなに苦しい思いでいたか、そのことを改めて知らされたからだ。言葉はほんとうに生きて(ダイナミックに)私に働きかけてくることに喜び、感謝でいっぱいになった。

ノートに書き取ったメモをここに記しておこう。

日課のヨハネによる福音書14章1〜14は居住まいを正して聞かなければならないほど大きな言葉。

「心を騒がせるな」という語りかけではじまるが、この心が騒ぐという言葉のもともとの意味は、池の水が動く、つまり外からの力で静かな心が千路に乱れること。不安、動揺、心が分裂してしまう状態。心が割れる。

聖書の中にはイエス自身が「心を騒がせている」場面の記述がある。
この箇所に至るまでの11章から13章までの間に3箇所、そのような箇所がある。愛するラザロの死に対して(11−33)、最後の祈りの場面で(12−27)、そしてユダの裏切りの場面(13−21)。
悪からの挑戦がイエスに迫ってきている時、イエスは心騒がせた。むしろイエスは誰にも増して心を騒がせたのかもしれない。

この「心を騒がせるな」という言葉を、イエスは弟子たちをしかりつけるように言ったのではない。心が騒ぐというような危険の中でこそ、孤立しないで、自分の力の上に立たないで、ほんとうの信頼の中に身を置くことが大切であることを示している。

<ボン・ヘッパー「共に生きる」より>
独りでいることができない者は
交わりに入ることを用心しなさい
神に、あなたは独りで出会ったのだから
交わりの中にいない者は
独りでいることに用心しなければならない
召しはあなた独りだけに向けられたものではないのだから

召された者として、信仰を同じくする仲間とともに生きる。
心を騒がせるなと言ってくださるイエスに信頼し、このイエスに密着して生きる。神に向かい合っていきるということ。
私たちは生きた石として霊的な家を建てるために召されている。

「私の家には住むところがたくさんある」(14−2)これは「私はまことのぶどうの木、、、」(15−1,2)と関係が深い。イエスとひとつになって生きるという、イエスとの深い人格関係を示している。

私たちは日々生活する中で、あてのないことを繰り返しているのではない。
確実に意味のあることをしていると保障されている。
私が今ここで生かされていることが、神様が私に与えてくださった私のつとめ。
すべてのことが偶然ではない。私たちは確実に意味のある時間をすごし、確かな人と人との出会いをしている。


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ヨハネによる福音書14章1〜14


◆イエスは父に至る道
14:1 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。 14:2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。 14:3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。 14:4 わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」 14:5 トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」 14:6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。 14:7 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」 14:8 フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、 14:9 イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。 14:10 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。 14:11 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。 14:12 はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。 14:13 わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。 14:14 わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」


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