たりたの日記
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2002年04月17日(水) |
映画「シッピング ニュース」 |
ニューファンドランド島、凍てつく雪の中吹雪の中で20人ほどの開拓時代の 服装の男女が大きな家をロープで引いている。幻想的なシーン。40年もの間人の住んでいなかった廃屋は四方をロープで支えられているがその家は風が吹くとまるで泣いているような音を出す。母親を事故で亡くし、父親とともに、祖先が住んでいた土地へとやってきた少女はこの古い家の心を読み取っているかのようだった。少女は家がロープの縄目から自由になりたがっていると言う。実際この映画の中に登場する人間たちは、それぞれに過去の重い傷を抱え、そのことに縛られていた。そしてこの映画ではそれぞれが抱えてきた痛みが癒され解放されていく過程が暖かくまた深い人間洞察の中で描き出されている。嵐の夜、ロープで支えられていた家が崩壊する。しかし、それはこの家の重い過去、そしてそれぞれが抱えてきた過去からの解放を象徴しているように思った。現実の重さとは裏腹に、都会で新聞社のインク係をしてきた主人公の男が故郷の島で港湾ニュース(シッピング ニュース)の記者になって記事を書くようになる場面はしゃれたユーモアがあちこちに効いていて、思わずクスリと笑ってしまう。
監督は「ギルバート グレイプ」「ショコラ」のラッセ・ハルストレム。スウェーデン出身だ。そういえば、これらの映画に共通している部分が見えてくる。どれも主人公は社会の中でのアウトサイダーたちがであり、解放と癒しというテーマを持ち、豊かなヒューマニズムに満ちていて、一様に観た後に清清しいものが残る。また現実の風景がどこか幻想的にファンタジックだ。こういうのを詩的な映像というのだろうか。だから時間が経って映画の細部の記憶は薄れてきても、その中の風景やその匂いのようなものが自分の心象風景のように染み付いているのに気がつく。アメリカ映画なのにずいぶんヨーロッパ的な感じだなあと思っていたが、彼がスウェーデン人だと知って納得した。以前ビデオでスウェーデンの児童文学作家リンドグレーンの「やかまし村のこどもたち」を映画にしたものを観たが、これもハルストレム監督の作品だった。だいたい映画が原作に勝ると感じることは少ないが、その映画ではスウェーデンという国がどういう国なのか百聞は一見にしかずで本の中のやかまし村をほんとうに目にしたような驚きがあった。
この「シッピング ニュース」でピュリッア賞を受賞している原作者E・アニー・ブルーは、 「もし風景を正しく掴むことができれば登場人物たちはそこから歩み出し、正しい場所に収まるでしょう。ストーリーは風景から生まれるのです。」 と語っているが、この映画はそんな作者の想いと呼応するように、風景がそこに生きる人たちをしっかりと抱きかかえているようであり、また風景そのものが言葉を超えて多くを語っている気がした。
興味深い映画だったし、深く印象に残る映画には違いないが、ここまで書いたことを読み返してみると少しも私自身が出てきていない。何かよそごとという印象の書き方だ。日本の山間の町で育ち、平穏な家庭生活を送っている私には荒くれの海賊をルーツに持つ人々の痛みも、海で生きる死と隣り合わせの生活も、また破綻してしまった結婚や新たな恋の芽生えもどこか遠いところのできごとであることにはまちがいない。
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