たりたの日記
DiaryINDEX|past|will
今朝、ホームページの掲示板にナベトモさんからベツレヘムの聖誕教会が攻撃されることについての書き込みがあった。 正直なところ、政治の話は苦手だ。あまり新聞を読まないし、テレビもほとんど見ないので、おおよそのことは目や耳から入ってきてもそのことを論じるほど、外の世界で起こっていることについてまじめに考えていないのである。これは言い訳のようだが、まさしく言い訳なのだが、社会で起こっている「凄いこと」にひとつひとつ心を留めていては身が持たない、先へ進めないという気持ちになってしまう。爆撃のニュースを聞いたすぐ後に、幼児の白骨死体が押入れからたくさん出てきた報道を読んだすぐ後に家族のご飯の支度をしなければならない。ささやかな日常ではあるが私はそれを進めていかなくてはならない。そうだとすれば、歌や祈りや花などからポジティブなエネルギーをもらい、世の中の争いごとや憎しみや不正からくるネガティブなエネルギーを取り込まないように自己防衛をしてしまう。社会科の先生からはしかられてしまうけど。
しかし、今日はどういうレスを書こうかと、少しだけイスラエルとパレスチナのことを心にとりこんで私の感じたことを書いた。あまりに根が深く、イスラエルとパレスチナ間の問題に限らず、イスラム世界に対するアメリカの偏見や、テロ対策を口実にして、アメリカの流儀が通るように世界をまとめたいといった野望のようなものもそこに見え隠れしている。それぞれが「神」を引き合いに出しながら、一番神から遠い行為を繰り返しているように思える。そういうことを考えても、イエスは実に革命的だった。全く神の人だった。彼は命を得ようとするものはそれを捨てよと説くのだから。得ようとするものは失い、失うことで得ることができると。この世の悲劇は得ようとするがあまり、ことごとく失っているということ。そのことに私も含めて誰も気づかない。気づいても止めることができない。そうやって繰り返しキリストを十字架にかけ続ける。
<掲示板へ書き込んだこと>
ナベトモさん、おはようございます。昨日は新学期のはじまりでバタバタしていて、こういうシリアスな書き込みのレスができないでいました。 他のクリスチャンのことは分りませんが、私にとってはキリスト生誕の地ベツレヘムの聖誕教会が攻撃されること自体にはそれほど痛みを感じません。そもそもキリストの肉体が十字架上で徹底的に破壊されたのですから。領土もお金も名誉も命さえも、この世で人々が人を傷つけ、陥れても手にしようとしているそれらいっさいのものをキリストは「ちり」に等しいものと訴えて、そのことを身をもって示したのですから。 イスラエル側もパレスチナ側も、自分たちの正義を頑なに信じ、相手の立場や痛みの方向からものごとを見ようとはしない。キリストが十字架にかかってまで「愛する」ということ「友のために命をすてること」を説かなければならなかった2000年前の人の心と今日の状況は少しも変わっていないのですね。 私たち人間は聖誕教会を破壊するどころか、キリストを繰り返し十字架に付けて殺していることを思って胸が痛みます。どのような戦いであろうとそれが人を傷つける以上、それは罪。神から一番遠いことなのに。
|