たりたの日記
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26日から28日まで金沢の弟のところへ1月に生まれた赤ん坊を見に行った。
わが子が今年二十歳を迎えようとしている今、赤ん坊と過ごした時ははるか遠くのこととなってしまい、その時のことも切れ切れにしか思い出せない。当時付けていた育児日記を紐解いてみても、ミルクの量や睡眠の時間、日々変化していく赤ん坊の様子などは詳しく記されているものの、その時の私の気持ちや考えていたことなどは何も書かれていない。しかし、赤ん坊を与えられたということがそれまでの私の人生の中でも一番大きな変化だったことは記憶している。生活パターンの変化も去ることながら、自分自身の生きる方向のようなものがそこから変わった。そこにあった想いはしかしどういうものだったのだろう。生まれて間もない赤ん坊を腕の中にもう一度抱けばその時の想いの中身を確かめることができるのかもしれないと、そんなことを漠然と考えながら新しい甥との対面を待っていた。
ベビーベッドに寝かせられた小さな生き物。初めに見た時は「かわいい」と思う以上の感情は取り立てて起こらなかった。ところが2度3度とミルクを飲ませるうちに不思議な力に引き寄せられてくように心が赤ん坊の方に引きつけられていくのを感じた。もうこれだけで十分といった充足感と、泣きたくなるような切ない気分。そして赤ん坊の前に何ともちっぽけな存在になってしまう自分。
すっかり忘れていた母親になりたての時の気分が蘇ってきたが、それはくらくらするような陶酔感、いわば恋に落ちた状況だった。この小さな命を守るために、自分は何もかも放り出してもかまわないという一途な気持ちに支配されていた。他の物は何もいらない、他には何も関心が向かないという、かなりエゴイスティックな閉じていく心の動きだったように思う。いったいいつまでこの蜜月が続いたかははっきり覚えていないが、赤ん坊がやかて一個の人間として自己主張を始めるようになるまで母子一体のその時が続いたのだと思う。その時期はやがて過ぎ去っていくので、その気分もじき忘れ去られていくのだろうが、恐らくどの母親もあるいは父親も一度は通過した時期なのに違いない。
生まれて間もない赤ん坊は一様に自分を抱く大人を自分への愛へ引き込まないではおかない強力なエネルギーを放っているのだろう。大人が世話をしなければ一日も生きることができない頼りない存在であるが故に、神は人の愛を喚起する最大級の力を赤ん坊に与えたのだろう。手のひらにすっぽり入ってしまうほどのぐらぐらと首も据わらぬ頭、力を入れれば壊れてしまいそうに柔らかな身体。しかし、その呼吸する小さな生き物は命の源としっかり繋がっていて、その大きさと不思議の中に人間を引き込まずにはおかない。
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