たりたの日記
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弟のところの真ん中の子はいわゆる重度障害児だ。8歳なのだが、言葉を発することができない。しかし彼のまわりにはなんとも優しく美しいエネルギーがあって、私はそれが好きだった。でも言葉をかけられないし、彼の関心もこちらには向かなかったから私はそんな彼を一方的に眺めているだけであった。 ところが今度は少し違った。彼が私の膝の上に乗ってきたのは私の内に何か変化があったのかもしれない。私は言葉をかける代わりに、いつも花や木に話しかけるような具合に彼の心に向けて思いを集めた。いいな、好きだなと思っているだけではなく、はっきりと無言の言葉として彼に送った。彼のエネルギーがさっと変わったのが分った。彼は膝の上で跳びはね、私に顔を近づけ、また私の背中をこぶしでどんどんと叩いた。もう力は随分強くなっているので痛かったが、それは私のメッセージへの応答だということが分っているので嬉しく、また心を動かされた。 その後彼は私の存在を彼は認めてくれるようになった。姿が見えないと探し、別れようとすると別れを惜しんでくれた。言葉ではないけれど、彼から送られてくる直球型のエネルギーはとても強く、喜びに満ちていた。彼しかない持ち味。家族が彼を抱えることの労力は大変だが、彼の存在がもたらしているすばらしいものがここにはあることを知ることができた。
ここの家の長男、9歳のYの持ち味もかなりユニークだ。あまりにいろんな要素があって、こういうタイプという具合に分類ができない際立った個性を持っている。最も感動的なのは彼の喜怒哀楽の強さだ。彼は別れを惜しんで泣くことができるという希少な子どもである。私は彼のこの部分に心底感動を覚えているが、うっかり無防備でそこに立ち会うと4,5日はそのことが心から離れずに苦しい目に会う。きっと彼の方は数時間もすればけろりと元のモードに戻れるに違いないのに私の方が立ち直れない。そこで今回は初めから多少用心していた。 こういう心のコントロールも人間には必要になる。ストレートにエネルギーを向けてもまた受け止めても痛みになることがあるからだ。どこかでそのことを恐れてか、相手の心とできるだけ触れ合わないでいようとことさらに努力する大人は少なくないのだろう。愛も憎しみもストレートに向けようとはしない。あるいはそうしたくても出来ないのかもしれない。そういう人たちの前では言葉は心をつなぐものとしての役目を果たせず、発する言葉はそのそばから地に落ちていくようで、その人の心へ達する道は気が遠くなるほど遠く感じる。それもこれもそれぞれの持ち味には違いないが。
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