たりたの日記
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今日は父の74歳の誕生日だ。母といっしょに好物の桜餅と私が作って送っておいたバナナケーキを持参して病院を訪ねる。 看護婦さんに伴われて面会室に入ってきた父はにこにこしていてやわらかくおだやかな空気をまとっている。すっかり力のぬけた屈託のない父の顔を見て、何かうれしさがこみあげてくる。この感情も今までのものと違うなと感じる。
職業柄か、それとも父の性格のせいか、いつもどこかに緊張があった。敏感というよりは過敏でちょっとしたことでイライラし、キレルこともしばしばだった。だからこんなに穏やかな気分でじっと父のことを眺めるなど、父が痴呆になったからできることなのだと思う。すっかり記憶はないというのに、物を食べたり飲んだりする仕草はまったく父のもので、それを見るのは心地良かった。いつもいつも父とぶつかって来たのに、私は父のリズムのようなものが好きだったのだと改めて思う。
父は母も私ももう認識はできないのだが、でも親しい人間ということは分るのかとてもくつろいだ様子で椅子に座っている。そして昼食のすぐ後にもかかわらず、私たちが差し出すものは何でもあっという間に食べてしまう。桜餅、苺大福、バナナケーキ、プリン、ヤクルト、その食べっぷりから胃腸がとても丈夫だし、身体はとても健康なのだと分った。
去年の春にはまだ上手に吹けたハーモニカはもうほとんど吹けなくなっているが、鼻歌の音程はまだしっかりしていた。「春が来た」などの小学校唱歌を3人で口ずさむ。父の残された能力が少しずつ減っていく。言葉もさらに少なくなってきた。記憶も、そしていただいたひとつひとつの能力も順にお返して行きながらそれでもますます豊かになっていくものが目に見える。いったいそれをどう表現すればいいのだろう。その人間の本質がその人の持ち物ではないことを教えられる。それはその人の知恵や記憶ですらない。脳が司るものではない、もっと別のところにあるもの。生まれたばかりの赤ちゃんは文句なしに誰からも愛されるという力があるが、何もかもはずしてしまった痴呆の老人には赤ちゃんと同じような力があるのではないかとふと思う。
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