たりたの日記
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2002年02月17日(日) 悪魔との対決

今日の聖書日課はイエスが荒野で悪魔と対決する場面だ。子どもの頃から何度もこの箇所を読み、また話を聞いてきた。映画やビデオでも見た。それなのに今回読みながら不思議に新しい感覚があった。新しいと感じるのは私の心持ちの方に何か変化があったのかもしれない。この箇所を非常に緊迫した対決という風に思ってきた。また悪魔が人間を誘惑する方法はこうなのだと悪魔の存在を恐ろしく感じてもいた。ところが今読みながらこの悪魔がなんともコミカルに感じられるのである。

イエスは40日間断食をしているのである。40日も断食ができるほどの精神力があるのである。そのイエスを前に「神の子ならこれらの石がパンになるように命じたらどうだ」と誘惑するとはなんと間の抜けた誘惑の仕方だろうと思ってしまった。それ対するイエスの応答はもうレベルが違う。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」とムキになって悪魔と張り合おうとはせずにあくまで聖書の言葉を引き合いにだす。悪魔が「神の子」だと証明しろと向かってくるのに対してイエスの方角は全然別の方向を見ているのだ。神の子だと証明することなどにはてんで興味がないといった風だ。これには悪魔も肩透かしを食らったことだろう。

悪魔はしかしイエスの方角が見えないでいるから同じように馬鹿な誘惑をする。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」と。確かに今度はイエスのように聖書の言葉を持ち出して格調高く対抗してはいるがその下心は露である。イエスは神を試すという行為の卑しさを指摘する。

3つ目の誘惑はもう笑ってしまう。「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言うのだ。人間は誰でも彼でも権力や冨に弱いと悪魔は思っているのに違いない。人間をなんというステレオタイプで見ていることか。権力や冨にまったく興味がない人間だってたくさんいます。ましてやイエスがそんな誘惑に引っかかるわけないでしょう。イエスは「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」 と悪魔を撃退するのである。

悪魔の方向とイエスの方向の違い。言い換えれば悪魔の眼差しとイエスの眼差しの違いがくっきりと出ていておもしろい。神とひとつにつながっている時、どんな誘惑も誘惑にはならないのだろう。

さて、今この世界に出没する悪魔はこのイエスを誘惑した悪魔のように分りやすく笑ってしまうくらい読みが浅い悪魔だろうか。悪魔はあの当時より数段腕を磨き、また一筋縄ではいかなくなっているような気がする。正義の中にも、愛国心の中にも、どんな人間の美徳とするところにでも悪魔は入り込む隙を見つけることができる。私たちは隠れ潜んでいる悪を注意深く見つけなければならない。そして見つけたならそれを拒まなければならない。でもいったいどのように拒めばいいのだろう。私たちは悪魔を退ける力ある神の言葉を以前にも増して見失っているのに。


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マタイ4章1〜11
◆誘惑を受ける
4:1 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。 4:2 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。 4:3 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」 4:4 イエスはお答えになった。
「『人はパンだけで生きるものではない。
神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』
と書いてある。」 4:5 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、 4:6 言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。
『神があなたのために天使たちに命じると、
あなたの足が石に打ち当たることのないように、
天使たちは手であなたを支える』
と書いてある。」 4:7 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。 4:8 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、 4:9 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。 4:10 すると、イエスは言われた。「退け、サタン。
『あなたの神である主を拝み、
ただ主に仕えよ』
と書いてある。」 4:11 そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。



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