たりたの日記
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教会での葬儀は別れを告げる時であるとともに、地上での戦いを戦い抜いて天へと凱旋する祝いの席でもある。悲しみの中にも深い慰めとまた内からふつふつと湧き上がってくるような力をいただく。
93歳で召されたT先生のご家族とは親しくしてきたものの、御本人とは面識のないままだった。私たちがこの教会に来るようになってからずっと病床にあり外出できないお体だった。10年の間文字通り病と闘い、最後の数年間は目も見えない状態でありながら息を引き取る時まで実に信仰的な方だったと看病に当たられた家族の方から伺い改めて深い尊敬の念をいだく。
喪主のTさんのお話によると、高校の教師として教鞭を執っていた時期にイエスとの出会いがあり、その瞬間に救いを受け入れそれまで浴びるように飲んでいた酒をその日以来すっかり絶ってしまったということだった。40代ですでに家庭もあるT先生にとってそれはドラマティックなキリストとの出会いだったことが偲ばれる。まさにイエスから私についてきなさいと召し出された弟子たちのようにT先生は勤めておられた高校の教師を止め、神学校に入り伝道者としての歩みを始められたのだった。その後教会やミッションスクールで証人としての人生を送られ、最後は闘病という形で証をし天に帰られたのだ。不自由な体から開放され、目が開かれイエスのもとに安らいでおられるT先生が見えるようだ。
人は自分の終末の形を選ぶことができない。私の父のように痴呆が進んでいく形もあれば、頭は冴えていながら体の自由が効かなくなるT先生のような形もある。どちらが良いともまた楽とも言えないが、それ以上に選択の余地はないのである。それぞれに与えられた終わりの時を受け入れそこに意味を聞き取っていくことしかできない。本人もまた家族も。
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